三蔵は目の前の店を紫暗の瞳に映した。
朝七時にしては、店内に客が多い。
かといってザワザワと騒がしい訳でもなく、クラッシックの音楽が流れる中で朝食を楽しんでいる感じだった。
八戒たちは、昨日訪れているはずだ。
あいつ等だけに任せても良かったが、やはり自分の目で確かめておかない事には何とも言い難い。
喫茶店が流行っているかは、モーニングかランチの時間で大体分かってくる。
が、ここはコーヒー専門店。
ランチよりかはモーニングだと思ったから、こうやって朝早くから出向いてきた。
店の周りには色とりどりの花が植えてあり、殺風景な路地のそこだけが別空間であるかのような錯覚に陥ってしまいそうだった。
三蔵はその花を一瞥した後、ドアに手を掛けた。
カラン、カランと鳴る鈴の音が自分を出迎えた。
それに続き――。
「おはようございます。」
カウンターにいた女性店員が声をかけてきた。
三蔵は一度店内を見回した後、一番奥のテーブル席へ足を向けた。
席に着いて直ぐ、先程の店員がオシボリとお冷を持ってやって来た。
そんな彼女を紫暗の瞳に入れながらも、スーツの上着を脱ぎ、マルボロを取り出し口に銜えた。
「あの・・・。すいません、禁煙なんです。」
「ん?ああ、すまない。」
「いえ。何になさいますか?」
「ホット。」
短く答えてから、銜えていたタバコをしまった。
そして、メガネをかけて棚から取っておいた新聞を広げる。
周りにいた女性たちからは、いつもの如く聞きなれた溜息が聞こえてきた。
だが、それ以上に騒いでこないというのは、この店だからだろうか。
ゆっくりと、落ち着いた時間が流れている。
新聞越しにチラッとカウンターを見れば、先程の彼女だけが動き回っている。
無駄のない動きで、客とカウンターの間を往復して、コーヒーやモーニングプレートを運んでいた。
ようやく三蔵の前にもそれらが置かれた。
プレート皿はどうやら皆同じ物らしいが、コーヒーカップは回りを見ても同じ物は一つとてなかった。
三蔵にと出されたカップは、白を基調として、周りにはゴシック様式の縁取りが金色でされている物だった。
嫌味のないデザインに、フッと口元が緩んだ。
それを誤魔化すように、コーヒーを口に運ぶ。
その瞬間、ふわっと口に広がる優しい甘み。
コーヒー豆の甘みか。
「なかなか出ないものだが・・・。いい味だ。」
店の雰囲気も悪くはない。
菩薩との賭けに負けて、仕方なく”BAR”をやることになったが・・・。
乗ってやらねえこともない・・・か。
――崑婪グループ社長室
本日の仕事の内容を説明する紫鴛の声に耳を傾けているのは、この会社の社長である焔。
どうやら今日はこれといって外出予定もなく、書類に目を通すだけの至って楽なほうだ。
もちろんそれは紫鴛がそうなるようにと仕組んだものだったわけだが、当の焔にそれを知る術はなかった。
楽だと思っていたのが間違いだと気付いたのは午後に入ってから。
焔の眼前に積み上がっている書類の山。
一体何処にこれほどまでの書類があったのかと疑いたくなるくらいの量である。
焔は今日何度目かの溜息を吐き出して、目の前で穏やかな笑みを浮かべている秘書を見上げた。
「どうかされましたか?」
「・・・いや。」
「そうですか。今日中に終わらせてくださいね。」
「本気か?」
「当たり前です。所用がありまして少し外出してきますが、逃げないで下さいよ。」
念を押すあたり、やはり信頼されていないのだろうか・・・。
どちらが上か疑問に思ってしまうが、それでも頼りになる部下に他ならない。
そんな紫鴛が所用で席を外すなんてそう滅多に無い事だ。
そういえば、是音も朝会ったっきり目にしていない。
・・・何かあるな。
「まさか・・・に何かあったのか?」
「いいえ。彼女に何かあれば休暇を願い出ていますよ。」
「それもそうか。」
「余計な詮索はやめて、仕事を片付けてください。では。」
策士的な笑みを浮かべて物事を動かす紫鴛の内心を読む事ははっきりいって不可能に等しい。
パタンと閉じられたドアに溜息を吐き出して、焔は仕事を再開した。
焔と紫鴛たちは幼馴染だった為、子供のころはよく一緒に遊んでいた。
もちろんその時は妹のも一緒だった。
が、中学に入学したのを期に会わせてはもらえなくなった。
今ならもう幼さの残る少女から、魅力的な大人の女性に変わっているだろう。
あの黒曜石の髪はどのあたりまで伸びているのか。
あのあどけない蒼い瞳は今は何を映しているのか。
紫鴛と是音がいつも目を光らせているので、彼氏は未だにいないらしいが・・・。
一度名前を口にすると気になって、仕事が手につかない。
紫鴛が行く前に置いていった珈琲を口にする。
いつ飲んでも旨いと思うが、の方が専門的に勉強しているため上手だという。
この街の何処かに珈琲専門店も出したそうだ。
一度行ってみたい。
の淹れた珈琲を飲んでみたい。
幾度と無く紫鴛と是音に交渉してはいるが却下されるばかりで、会いたいと願う気持ちばかりが膨らんでいく。
「・・・会いたいぞ、。」
願う事は自由だが、それが叶うのは茨の道だ。
その頃――
の店へと続く路地手前の大通りに一台の車が止まっていた。
それは見張りを続けている是音の車に他ならない。
朝、を送った後からずっと張り込んでいる。
そんな車の窓をノックする音がして、是音は視線を向けた。
「今朝はアイツが来たぜ。」
ボタン一つで窓を開けながら是音が口にした言葉に、紫鴛が表情を曇らせた。
「まさか、玄奘ですか。」
「ああ。それと十時過ぎに連中もな。」
「で?」
「玄奘は帰ったが、連中はまだだ。」
今は午後一時半過ぎ。
十時からとなると、かれこれ三時間半は居座っていることになる。
何をしているのか。
が危険な目にあっていなければいいのですが・・・。
確か、沙悟浄はかなり女癖が悪く、手が早いと聞きます。
「行きます。・・・貴方はどうしますか?」
「俺は残るぜ。誰が来るか解らねぇからな。」
そうですか、と一言残した紫鴛は路地へと入っていった。
の店の前にたどり着き、一呼吸置いてからドアを開けた。
いつもなら迎えの時にノックするドアだが、今は違う。
兄として、又、一人の客として来店したのだ。
カラン、カランと鈴の音が迎えてくれる。
それに続くのは花のような笑顔と声。
「いらっしゃいませ。」
ちょうど珈琲を淹れていた手を止めたが入り口を振り返り、驚きと嬉しさの入り混じった表情をした。
カウンターに座っていた二人がその様子に気付き、紫鴛に視線を向けてきた。
紫鴛は厳しい視線を八戒と悟浄に投げつけながらカウンターの席に着いた。
店内に他の客はいなかった。
「どうかしましたか?」
「あ・・・。ごめんなさい、ビックリしたから。」
そう言ったはすぐにいつもの笑顔に戻ると、手元の珈琲を悟浄の前に差し出した。
「すぐに淹れるね。」
「ええ。ゆっくりでかまいませんよ。」
「じゃあ時間あるの?」
「特別です。」
細い瞳をさらに細めて頷いた紫鴛を見て、は心底嬉しそうに笑顔を浮かべた。
そして奥の棚から白にシルバーのラインがシンプルに入っているローゼンタールの珈琲カップを取り出し、作りたての珈琲を注ぎ紫鴛の前に差し出す。
紫鴛は立ち昇る珈琲の香りを満喫してから、ゆっくりと珈琲を口に含んだ。
香りに負けることなく広がる味わい。
それらを一通り堪能してから、紫鴛はカップをソーサーに戻して隣の二人に顔を向けた。
「ところで、貴方々はに何か個人的な用でもおありなんですか?」
「すいません。自己紹介がまだでしたね。」
「必要ありません。観世音グループの猪八戒さんと沙悟浄さんですね。」
八戒と悟浄が息を呑む。
「すごい。お兄ちゃんどうして知ってるの?」
「なんだ、チャンが話したわけじゃねえんだ。」
「・・・でしたら何故僕たちの事を知ってるんです?」
紫鴛は崑婪グループの社長秘書。
八戒と悟浄はまだ上の地位についていない為に面と向かって会う機会はなかった。
が、噂は何処にでも飛び交っている。
裏で色々調べたり画策したりするのを得意としている紫鴛にとっては容易いことに他ならない。
その反対、八戒と悟浄は疑問に思うのも無理のない話である。
彼らの疑問に答えるわけもなく、紫鴛がさらに追求しようと口を開こうとした瞬間、胸ポケットの携帯が着信を告げた。
「どうしました?」
『観世音が行ったぞ。』
「解りました。」
告げられた内容に、全ての黒幕は観世音菩薩だと理解した。
紫鴛が携帯をしまうと同時に店のドアが開いた。
「あ、いらっしゃいませ。」
「よう。」
振り返った紫鴛と観世音の視線が交わる。
「なんだ・・・。お前もに興味があったのか?そいつは初耳だな。」
「ええ。また何か企んでいるようですけど、今度は何をされるのですか。」
「ふッ。さすがは焔のとこの秘書だけあるな。」
「「・・・はい?」」
「あん?お前ら知らなかったのか。崑婪グループの社長秘書、紫鴛だぜ?聞いたことくらいあるだろ。」
観世音の言葉に唖然とする八戒と悟浄。
はそのやり取りを見つめながらも、菩薩の前にカフェ・ブルボンを差し出した。
「だが、珍しいじゃねえか。お前が妹以外に目を向けるなんざ。」
髪と同じ艶やかに輝く黒曜石の瞳が輝く。
業界でも紫鴛の過保護ぶりは有名な話である。
箱の中に大切にしまわれて育てられた妹。
いくら菩薩の権力でも彼女を見たことはなかった。
そんな紫鴛が妹以外の女性に興味を示していると知っては、面白さも拍車がかかるというもの。
「?ねえ、お兄ちゃんって私以外に妹いたの?」
「そんなワケないでしょう。私たちの大切な妹はだけですよ。」
「おい・・・。お前、まさか」
「私たちの可愛い妹のです。あまり手を出されると困るんですけどね。」
「くくくッ。もう遅いな。」
悪戯に口角を上げる菩薩に、紫鴛の表情が一気に曇る。
彼女がこのような反応をするときは何か良からぬ事を企んでいるときと知っているからなおさらだ。
畳み掛けるように事の次第を聞きだすと、案の定としかいいようがない内容に溜息しか出てこない。
「本当に一ヶ月だけですよ。後、に手を出すようなら・・・解っていますね?」
有無を言わせぬオーラで八戒と悟浄を射抜く。
それを見て面白そうに笑うのは菩薩で・・・。
「くくくッ。やっぱにして正解だったぜ。」