―― シャボン玉 ――





美術教室の窓を全開にしたは、外からの風に弄ばれた漆黒の髪を耳にかけた。
ふわっと舞い踊る白いカーテン。
その向こうに広がる青く澄み渡った空。
眼下の校庭では野球部やサッカー部、陸上部の生徒が練習に汗を流している。
そんな彼らの元気な声に混ざって聞こえてくるのは夏の風物詩である蝉の鳴き声。
は一つやりきれない溜息を吐いた後、カバンからシャボン玉キットを取り出した。
窓辺にイスを移動させ、晴れ渡る空に向かって七色に煌めく泡玉を飛ばす。
太陽の光を受けた無数のシャボン玉はふわふわと煌めきながら空に舞い上がっていく。

何処に行くか、何処まで飛ぶか分からない。
儚い存在。
すぐに消えてしまう存在。
誰かの心の中に残るんだろうか。
今の私と一緒。
大学受験に向けての追込み時期。
でも何がしたいかはっきりと見えてこない。
絵が好きだから美大にしようと漠然と思ったくらいで、じゃあその後は?なんて考えても見つからない。
それに追い打ちをかけるように、気付いた恋心。
まさかそれも原因で勉強が手に付かなくなるなんて思っても見なかった。
だから気分転換に学校に来た。
今日は部活の活動日じゃなかったから、誰にもあわないだろうとそう思ってた。

なのに


先輩。いいんですか、こんなところで油を売ってて。」

穏やかな声が耳に入る。
それと同時に高鳴る鼓動。
振り向かなくても誰が居るのか分かってしまう。
今、この状況になっている原因の人。

「いいのよ。たまには気分転換も必要なのよ。」
「そうですか。僕もです。」

私より一つ下の猪八戒。
頼れる人柄から美術部の部長についている。
容姿も申し分なく、そのせいか今年の一年女子部員が例年の倍以上だったくらだ。
ようはそれだけ競争率も高いということ。
しかも、自分は八戒より年上で先に卒業してしまう。
勝てる確率はかなり低い。
だから言えない。
だから勉強が手につかない。

「シャボン玉なんて子供の頃以来ですよ。」
「そう。私は好きよ。何処に飛ぶかは風次第、何処まで行けるかは分からない。儚いけどね。」
「そうですね。・・・悩み事ですか?」

いつの間にかの隣に来ていた八戒。
翡翠の瞳を柔らかく細目ながら微笑んでいる。
この笑みを自分だけに向けてほしいなんて言えるわけない。
本当の悩みを隠して曖昧に頷いた。

「僕も実は悩み事があるんです。相談にのってくれませんか?」

意外な言葉に戸惑っている間に、八戒は椅子をの隣に並べた。

「気になっている黒猫がいるんですけど、どうもあまり懐いてくれないんです。」
「・・・悩み事って猫?」
「そうなんです。放っておくとシャボン玉のように儚く僕の前から消えてしまいそうで・・・心配なんです。」

真剣な眼差しに気圧される。
捕まえたいということは野良猫なんだろう。
八戒の性格上放っておけなくてなんとかしようと、今までに何かしていたが功を奏しなかったというところか。

「餌付けは?」
「やっぱり餌付けした方がいいんでしょうか。」
「してなかったの。」

の驚きの言葉に、八戒が苦笑いをする。

「僕の事をアピールしてはみたんですが、どうもイマイチで。それにもう時間がないんですよ。」
「猫にアピールしてどうするのよ。時間がないってのは分からないけど、だったら早く捕まえないと。」

もしかしたら保健所に通報されて捕まえられるのかもしれない。
そうなった動物はどうなるのか聞いた事はないが、決していいようにはならないはず。
なら、八戒に可愛がられた方が断然いい。

「そうですよね。では今度はストレートに告白してみます。」
「だから、猫に告白してどうするのよ。」
「僕のモノにするんですよ。、貴女が好きなんです。」

一瞬の空白。
何を言われたのか理解できない。
唖然としていると、ふわっと抱きしめられる感覚に現実に戻される。

「ねぇ、八戒。冗談言わないでよ?」
「心外ですね。僕は冗談でこんな大切な事言うわけないでしょう。」
「・・・年上だよ。」
「ええ。」
「先に行くよ?」
「ええ。何処までも追いかけますよ。」
「何処に行くか分からないよ。」
「僕の傍と決まってます。」

そっと触れられた頬に八戒の熱を感じた。
優しく包み込んでくれる感覚に、自然と瞼を閉じると降ってくる口付け。



何処に行くか分からない。
何処まで飛ぶか分からない。
儚い気持ち。
それを繋ぎ止めてくれるのは、他でもない八戒の存在。
透き通る青空に飛んでいく虹色の輝き。
何処までも高く。
いつまでも輝いて・・・。