いつも以上にそわそわしている大学院の構内。
黄色い声が向こうで上がったと思えば、それに続く無数の足音。
ドタドタと駆けてくるのは、色とりどりの袋を持った女性の群れ。
その数メートル前方を血相を変え、息を乱しながら走って・・・逃げているのは、長くてさらさらな金髪を靡かせた金蝉だった。
逃げながら、いつぞやの嫌な記憶が蘇る。
確か、あの時はに惚れ薬入りの香水を何も知らされず貰い、身に付けた。
だが今回は・・・ここ数日、中国文献のレポートの制作に追われてのいる研究室には近付いていない。
それに怪しいモノを口にしたり、身につけたりもしていない。
なら・・・何故なんだ?
世間のイベント事に疎い金蝉は、今日がバレンタインであることを知らなかった。
といっても、知っていようが関係ねえと取り合わない事は確実なのだが、今追い掛けられている理由くらいは解ったかもしれない。
もともと体力に自信のない金蝉。
先頭を走っていた女性の伸ばした手が金蝉に僅かに擦った。
マズイ
冷や汗が背中を伝う。
その時、黄色い声に負けないくらいの可愛い女の子が金蝉の前に飛び出してきた。
年の頃は四歳くらい。
ぽっちゃりとした手、丸みを帯びた顔、そして腰までの長い金髪。
純白のケープを羽織り、ワインレッドのワンピースがふわっと揺れる。
あまりに突然の事で、さすがに金蝉の足がとまる。
後ろから追い掛けていた女性たちも、何事かと少し距離を置き子供の出方を伺った。
「パパvvv」
「なっ。誰だ、てめぇ。」
「何言ってるの、パパ。それとも、ママ以外に好きな人でもいるの?」
ちらっと視線を金蝉の背後に飛ばす少女に、敵対心を年柄もなく剥き出しにする女性たち。
そんな中で、思考をめぐらしある考えに辿り着いた金蝉は迷うことなく少女を抱き上げた。
「悪いな。俺の娘だ。解ったんならとっとと失せやがれ!」
うそ!だとか、信じられない!とか、抗議や非難の言葉が飛び交う。
が、めんどくさそうに彼女たちを一瞥した金蝉は、そのまま歩きだした。
ある程度離れたところで少女をおろす。
「で?てめぇ、本当は誰だ。」
「・・・はい、パパ。あ〜んして?」
訝しみながらも、子供のやることだからと、おとなしく口を開けると狙ったように何かが放り込まれた。
「チョコよ。今日はバレンタインデーだもん。・・・もしかして、知らなかった?」
「ふん。クソ甘ぇ。」
眉間に皺を寄せながらも、金蝉は口の中の小さなチョコを飲み込んだ。
「あっ、そうだ。天ちゃんが今から30分後に研究室に来てって言ってたよ。」
「天・・・ちゃん?天篷のことか。」
「うん。伝えたからね。バイバイ。」
大きく手を振りながら駆け去っていく少女。
一体あいつは誰なんだ。
素性も目的も解らなかったことに顔を曇らせながらも、金蝉は重たい足を研究室のある研究棟に向けた。
笑顔全開で研究室のドアを開けた少女は、躊躇いなく中へ入っていった。
それに気付いたそこの住人である天篷と、世話焼きの倦簾。
「どうだった?」
「・・・その顔ですから、もちろん成功したんでしょう?」
「当たり前よ。私を誰だと思ってるの。」
子供に似付かわしくなく、威張って胸を張る少女は悪戯に微笑んで奥の仮眠室へと姿を消した。
そして数分後、ドアが開き姿を現わしたのは金色の髪が眩しいだった。
白衣から出た腕をかくかくと回しながら、首を左右に傾けて骨をならす。
「やっぱり、こっちのがいいわね。」
「そりゃそうだろ。」
「でも可愛かったですよ。僕の娘にしちゃいたいくらいです。」
「おいおい。それは俺だって同じだっての。」
「誉め言葉として受け取っておくわ。ありがと。」
――先程の少女。
実はが自分で作った薬を飲み、幼少の頃の姿になったものだった。
いつもいつも金蝉に怪しい薬を飲ませているので、最近は警戒心が強くなっていた。
このままではからかって遊べない。
なら、どうやって薬を飲ませるか。
折しも世間は幸せ気分満載のバレンタインデー。
ならそれに乗らない手はない。
としてなら、渡したとしても食べてくれる確立はないに等しい。
天篷と倦簾と色々討論した結果、子供なら油断するだろうという結論に達した。
それでわざわざ髪まで金色に染めて、悪戯を実行したのだ。
結果は大成功。
あと10分もしないうちに金蝉はここへ来るだろう。
そして真実を知ったときの反応を思い浮べる。
あまりに容易に想像がついてしまうことに苦笑いしながら、は白衣のポケットからラッピングされた小さな箱を取り出した。
「はい、天篷。」
「ありがとうございます。」
「はい、倦簾。」
「おっ、サンキュ。」
二人とものからかう相手が金蝉のみと知っているので、これに薬が入っていないことを充分承知している。
二人がラッピングを取り払った時、研究室のドアがノックされた。
間髪入れずに開くドアから顔を出したのは、もちろん金蝉に他ならなかった。
「おい、天篷。」
「はい?」
「用事はなんだ。」
用事・・・と言われても。と少々困惑顔で、天篷は不適な笑みを浮かべているに視線を移した。
金蝉もその視線を追い、白衣姿のを見て二の句が繋げなかった。
「どう?似合うでしょ。」
「・・・て、てめぇ、何してんだ。」
「イメチェンよ。金蝉にはコレ、あ・げ・る。」
実験器材の間にあった一つの紙袋を、戸惑っている金蝉の胸に押しつけた。
勢いで受け取ってしまった金蝉。
「心配しないで。食物じゃないから。」
「・・・食物じゃなくても痛い目にあってんだぞ。」
「そういえば・・・そんなこともあったわね。」
遠い目をしているを尻目に金蝉は紙袋を開けた。
眉間に皺を一段と深く刻んで、中に入っていった子供服を取り出す。
どうみても男の子用、しかもサイズは110。一般的に4〜5歳児用だ。
「何が目的だ。」
「え!必要ないの?」
「貰っとけ。絶対必要だからよ。」
笑いを堪えて肩を震わす倦簾と天篷。
それに嫌な予感がした金蝉が口を開こうとした時、異変が起こった。
急に視線が低くなった。
自分で何が起こったのか瞬時に理解出来なかった。
文句を言おうと声を出したが、耳に入ってきた声はさっきまでの自分のそれではなかった。
恐る恐る視線を自分の体へと落とす。
俺は悪い夢でも見てるのか!?
だぼだぼの服。少し高めの声。
それにたちの悪戯な笑い。
鏡を見るまでもなく一つの答えに辿り着いた。
「!てめぇ、今度は何しやがった!!」
「ぷっ。可愛い〜。」
お腹を抱えて笑いだした。それにつられて天篷も倦簾も堪えていたものを吹き出した。
盛大な笑い声が室内に満ちる。
「!まさか、さっきのガキはてめぇか、!」
「くくっ。ガキにガキ扱いされたくないわね。それに私の方が可愛かったでしょ。それに、チョコあげたじゃない。」
猛烈に抗議しようとしても、縮んだ体にサイズのあわない服。歩くことすらままならない。
苦虫を噛み潰したような顔をした金蝉を背後から抱き上げた人物がいた。
ふわっと鼻腔をくすぐる香水の香り。
そして艶っぽいが、不敵な声の持ち主。
ぎしぎしと首だけを動かし、その人物を見た金蝉は米神を引きつらせた。
「毎回楽しませてくれるな、。くっくっく。にしても、若返ったな。」
「るせぇ!離しやがれ、クソババァ!!」
菩薩の腕の中でジタバタと暴れる金蝉だが、ちびサイズなのでそんな仕草も怖くはない。
それどころか、面白すぎて笑いのツボでしかなかった。
目尻に笑い涙を溜めたが、思い出したようにポケットから小さな小さな袋を取り出した。
「金蝉。バレンタインデーのチョコ、いる?」
「いるわけねぇだろッ!てめぇで食え!!!」
「あ。いいんだ。じゃ、た〜べよ。」
小さな袋から取り出した、これまた小さなハートのチョコを口に放り込んだ。
そんなを見て首を傾げるのは金蝉と、意外に菩薩だった。
「おいおい、。薬入ってんじゃないのか?」
菩薩が問う。
「入ってるよ。でも金蝉にしか効かない薬。」
「ってえと?」
「もとの体に戻る薬よ。残念だけど、もうないわよ。」
ニヤッと口角を上げると、何も言えず固まってしまった金蝉。
その結果をおおいに楽しんだ菩薩も、同様綺麗に微笑んだ。
「あ、もとの体に戻るのに最低でも二日はかかるわよ。」
「何!!?」
「心配する事はないだろ。俺サマ直々に面倒みてやるよ。」
暴れる金蝉をがっちりと掴み、菩薩は研究室を去っていった。
廊下から、遠ざかっていく叫び声が微かに聞こえてきた。
「毎年の事ながら、今年は最高に荒れてましたね。」
「そう?上出来よ。」
どさくさに紛れて、かつ、薬入りではあるがチョコを食べさせれた事実におおいに満足しただった。