――― 掴んだ服 ―――
とてとてと廊下を歩いていく幼子。
春の日差しが何より心地よいのか、時折足を止め空をゆく小鳥を見上げている。
そんな気配を察した晴明が六壬式盤に向けていた顔をあげた。
本来、安倍邸には幼子はいない。
一番下の子は安倍晴明が孫、安倍昌浩だった。
昌浩ももう元服して、今は直丁として陰陽寮に通っている。
は、彼此半年前にわけあって晴明のもとにきた。
露樹たちには遠縁の孫ということにしているが、実は晴明の妹だった。
母である晶霞とその妹である晶瑛が守り、託した子。
穏やかな春の風が心地よく吹き抜けていく。
簀子に出てみると、が何かを探すように辺りを見回した後、軽く首を傾げていた。
はて、何を探しているのやら。
「、どうかしたのか?」
晴明の姿を認めたは難しそうな表情をして駆け寄ってきた。
「にいさま、青龍はどこ?」
「なんだ。宵藍のやつ何も言わずに行っておったのか。」
「だから、どこ?」
信じられない!
まったく・・・。普通何も言わずに行く?
たとえすぐに帰ってこれると解っていても、一言残してくれてもいいじゃない!!
ぴりぴりとした霊気が辺りに漂う。
時はうってかわって深夜、丑の刻を少し過ぎた頃。
いつものように深夜の見回りに出ていった昌浩と白い物の怪。
その後を追うように一人の妙齢の女性が築地塀から舞い降りた。
漆黒の長い髪を首元で柔らかく一つに結い、闇に溶けやすい深い蒼の昌浩と同じような狩衣を身に纏っている。
何もなければ柔らかいが、その真の奥には激しく真直ぐな気性を宿した、同じく蒼い瞳が昌浩たちを捕らえていた。
「ッ!どうしたんだよ?」
「昌浩。私も連れていって。」
さらりと言われた言葉に絶句する昌浩と物の怪。
返事がない事を肯定と受け取ったはさっさと歩きだした。
ようやく立ち直った物の怪が四つ足での横を駆け抜け、ばっと振り向き後ろ足のみで立ち上がった。
「待て!!」
前足を左右に広げて立ち塞がる物の怪の言葉には怪訝そうに首を傾げた。
「なに?」
「おまえ、身体はどうした!」
そう。本来は二歳の子供なのだ。
が・・・晴明が使っていた離魂術を覚え、たまにこうして成人の姿をとることがある。
だが、その傍らには必ず十二神将の青龍がいる。
姿を見せずに隠形していたとしても、その神気で同じ十二神将である騰蛇が気付かないはずがない。
「身体は六合と兄さまに任せてきたわ。」
希代の陰陽師と闘将六合が傍にいるのに、何を不安がることがあるだろうか。
「・・・なら、青龍はどうした?あいつには言ってるのか。」
「知らないわよ。」
「。青龍と何かあったのか?」
ようやく立ち直った昌浩が心配そうに顔を覗き込んできた。
「何もないわ。青龍なんて・・・」
「何もないことないだろ。気になってるから、だから俺と行こうとしてるんだろ。」
「違う!」
「違わない。」
昌浩が言っている事が正しいって解ってるよ。
でも認めたくないって時もあるんだよ。
約束したのに・・・。
先に破ったのは青龍なんだから。私だって・・・・・・。
唇を噛みながら真直ぐな昌浩の視線を避ける。
その時、いつもの感じ慣れた神気が降り立った。
にはそうないが、昌浩と物の怪に向ける双眸は射るように鋭く、蒼く冷たい。
右肩にかけて腰帯でとめている長い布がふわりと夜風になびいた。
「何をしている。」
「今から夜警に行くのよ。」
さらりと告げられた内容に青龍の瞳は剣呑に細められた。
向けられる苛立ちは物の怪と昌浩。
そんな昌浩は青龍の視線にぶんぶんと首を振って否定する。
「。帰るぞ。」
「いや!」
完全に拒否するにおかまいなしに、青龍はその細腰を抱き抱えた。
筋肉質の腕の中、なんとか逃れようと暴れるが、さすがにその力には適わない。
諦めたは逆に青龍の瞳を真直ぐ捕らえた。
「青龍のバカッ!」
「・・・。」
「バカ・・・。」
鍛えられた胸に拳を叩きつける。
堪えきれない想いが溢れて、それが形になって流れていく。
透き通った雫がとめどなく流れ落ち、地面に模様を描いた。
青龍はただ黙って見ている昌浩と物の怪を睨み付けた後、
声を殺して泣いているを横向きに抱きあげて築地塀の向こうに消えた。
もちろんそこは安倍邸で、泣きじゃくるを一先ず部屋に連れていった。
茵におろし、顔を隠す手をそっとのけてやる。
仄かな明かりの中、涙に濡れた瞳が青龍を映した。
「どうして離魂術を使った。」
「・・・。」
「俺がいない時には使うなと言っている。何故だ。」
「・・・青龍が悪い」
唇を噛み締め、消え入りそうな声で言った後、は部屋を飛び出した。
一人残された青龍は苛立ち紛れに舌打ちし空間に隠形した。
泣きながら戻ってきた妹を見て晴明は心配そうに目を細めた。
何があったのか問い掛けるにしても、纏っている気がそれすら許さないようにぴりぴりしている。
いつ爆発してもおかしくないだろう。
しゃくりあげながらは印を結び、魂を身体に戻した。
「六合、にいさま、ありがとう。おやすみなさい。」
「あれとて悪気があったわけではなかろうて。」
「・・・。」
出ていこうとしたを晴明の言葉が引き止めた。
無言で俯き、やり場のない悔しさを小さな己の手にぶつける。
ぎゅっと強く握り締めた手から一筋の紅が白い肌を伝った。
「やめろ。」
六合がの拳を開かせようとするより早く、顕現した青龍が幼い身体を抱き上げた。
「晴明、六合。こいつの我儘を許すな。」
「別に許してはおらんよ。」
手にした扇で口元を隠しながらひょうひょうと言ってのける晴明。
「なら二度とさせるな。」
短く告げた青龍は簀子に出て、屋根の上へ跳んだ。
春だといっても夜風は冷たい。
先程と違い、単衣のみしか纏っていないは青龍の腕の中で小さく身震いした。
あぐらをかいて腰を下ろし、その上にを座らせる。
背後から抱き締める形で、小さな耳に口を寄せた。
何を怒っているのか、その理由が分からない。
いつもなら自分を二つ名の『宵藍』と嬉しそうに呼んでいるのに。
「俺が何をした。」
「・・・。」
「。何故約束を破った。」
ぴくりと腕の中のが反応した。
「青龍が・・・青龍がさきにやぶった!」
俺が?
何を破った?
「青龍はにいさまの式神だから・・・でも、どこかにいくときはかならずいってって、やくそくしたのに・・・。」
今日のことに思い当たったが、これには訳がある。
青龍とて破りたくて破ったわけではない。
「おまえが寝ていた。」
「え?」
告げられた言葉に唖然として、は青龍の方を振り仰いだ。
星明かりしかないが、先に暗視の術を使っていたので青龍の表情がよく分かった。
困ったような、それでいて憮然としている態度に、の中で張り詰めていた物が溶けていった。
邸に渦巻いていたぴりぴりとした霊気も、それに呼応して消滅する。
それに気付いた晴明がほっと胸を撫で下ろしていたのはいうまでもないが。
少し力の弱まった腕の中で、は青龍に向き直った。
黙って、まだ不機嫌そうな夜の湖のように透き通った蒼を見つめる。
言わなかったんじゃない。言えなかったんだ。
私が寝ていたから・・・。
そんな宵藍の気持ちに気付かなかった。
胸が痛い。
「ごめんなさい。」
絞りだすように小さな声で謝った。
もしかしたら許してはくれないかもしれない。
離魂術を使っている時、傷を受けると魂に直接影響が出るので実体の時よりもひどく脆い。
陰陽道だけではなく、天狐の要素も含んだ術で、あまりにも頻繁に行使すると寿命を大きく削られる。
たとえがまだ二歳だといっても、実体に与えられる影響は皆無ではない。
だからこそ、必要としている時以外には使うなと言われた。
そして守れる者が・・・青龍が傍にいない時には使うなとも。
「俺は、確かに晴明の式神だ。だが、おまえについた。」
「・・・青龍?」
「違う!」
「宵藍・・・。」
涙に濡れた瞳。
幾筋も雫が伝った跡。
乾くことを知らないそれを、そっと青龍が拭ってやる。
ぎゅっと強く掴まれた肩布を視界に認めて、自然と目元が緩む。
あの日、あの時、に掴まれてから・・・俺が守ると己に誓った。
晴明と同じ血を引くが、まだまだ幼くあどけないを。
「ずっと傍にいる。」
おまえの傍で、おまえの過ごす時間を・・・ずっと。
人と神の末席に位置する神将とは時の流れは違えども、それでも俺は・・・・・・。