ゴロゴロ――

この季節には別段珍しくもない天候の変化。

青く澄み渡っていた空は墨を溢したかのように黒く淀んでいく。

絳攸は今にも泣き出しそうな空を見上げた。

「・・・急いでも濡れるだけか。」

溜息と共に零れたのは空からの雫。






始まりは天からの雫と共に







ここは貴陽の紅家別邸。
当主の養い子である絳攸は先程から書庫を目指していた。
今日の秀麗の講義に欠かせない書だった為、一度取りに戻った。
そこまではよかったのだが――。
自称『鉄壁の理性』の絳攸は叫びたいのを無理やり押さえ、わなわなと震える拳で壁を叩いた。

この邸で暮らしだしてはや十三年。
なのに、邸内で迷うとは・・・いいや、迷ってなどいない。
そうだ。これはきっと黎深様の嫌がらせだ。

そう考えると、目印の位置も微妙に動いていた気がする。
場所を聞こうにも、使用人にも出会えず仕舞い。

「一体ここは何処なんだぁ!」

早くしないと夕食の時間にすら遅れてしまう。
秀麗に鶏肉を持参して行くと言ったのに遅れるのも気が引ける。
それに秀麗はともかく、その背後に見え隠れする腹黒家人が恐ろしいと感じるのは気のせいではないはずだ。
苛立ちながら辺りを見回すと見覚えのある室が目に留まった。
それは紅家の長姫、紅の室だった。

こうなれば様にでも道を尋ねないと遅れてしまう。

意を決した絳攸はの室の扉を叩いた。
いつもならすぐに返事が返ってくるが、今日は静かなまま。

様?いらせられないのですか?」

黎深様が戻られていないのに、様がお一人で出かけられる事はない。
もしかして・・・使用人すら気付かない何かがあったのか。

「絳攸です。失礼します。」

断りを入れてから、ゆっくりと扉を開いた。
室内は灯りが灯っていなく薄暗い。
一見誰も居ないように感じられたが、奥に目を向けると窓辺に立ち尽くしているの姿が目に留まった。
突然、轟音と共に稲妻が光る。
その光に一瞬照らしだされた表情に絳攸は言葉をなくした。
絳攸に気付いて振り返ったの紫暗の瞳から零れ落ちる一筋の雫。
結い上げられていない艶やかな漆黒の髪が稲光に照らされて、なんとも幻想的な色合いをかもしだしていた。
正直、綺麗だと思った。
流れる涙を拭う事すらせず、儚い笑みを浮かべたが口を開いた。

「何かご用かしら、絳攸。」

触れたら壊れてしまいそうな、消えてしまいそうな感じがした。

「あの・・・。」

言葉が続かない。
涙を流すにかけるべき言葉が浮かばない。
それでも国試状元(一位)及第した頭脳なのか。
遣る瀬なさに苛立ちながら、ゆっくりとに近づくと、壊れ物を扱うかのようにそっと己の胸に抱き寄せていた。
消えないように、存在を確かめるように、そっと。
胸の中のが小さく嗚咽を漏らした。
そして絳攸に必死にしがみ付いてくる。
そんなを安心させるようにゆっくりと背中を撫でてやった。
一体どれくらいそうしていただろうか。
いつの間にか夕立も上がり、窓から夕日が差し込んできていた。










雨も上がり、ようやく落ち着いたは絳攸の腕から離れた。
人に縋って泣いたのは一体何年ぶりだろうか。
いつもこの季節になると、ただ一人で静かに涙を流していた。
忘れる事のできない過去。
消える事のない傷。
今でもそれはこの身体に、この心に刻み付けられている。

「ありがとう、絳攸。」

一人だった過去。そして一人じゃない現在。
頭で解っていてもどうしようもない。
だからこうして自分の近くにある人が傍に居てくれると安心する。

「その・・・大丈夫ですか?」
「ええ。」

の言葉に安心した絳攸はようやく肩の力を抜いた。
今まで一緒に過ごしてきた中で初めての涙だったから。
理由が気にならないわけではない。
でも、それは聞いてはいけない気がした。
そんな雰囲気を打ち払うように軽く咳払いして、絳攸は本来の目的を告げた。

「あら?それならここにあるわよ。」
「読まれていたのですか。」
「ええ。暇潰しにね。」

・・・暇潰しで読めるような簡単な内容ではないはず。
といっても、様にとってはそうなのかもしれない。
『怜悧冷徹冷酷非情な氷の長官』で名高い黎深様の妹君なのだから。
卓の上に置いてあった指五本分の厚さをもつ本をから受け取った。

これで書庫に行かなくてすむ。
それはこれ以上の時間の浪費をしなくていいということに他ならない。
これなら夕食の時間に間に合いそうだ。

「ありがとうございます。では私はこれで。」
「もう行ってしまうの?」

絳攸を見上げた紫暗の瞳が寂しげに揺れる。
これではどちらが年上か解ったものではない。
以外の女性が引き止めようとするなら、問答無用で切って捨てるが・・・。

「すいません。今から邵可様のお邸に行かなくてはならないんです。」
「邵兄様の?なら、ご一緒してもいいかしら。」

たっぷり三拍の間を置いて絳攸は言葉にならない声を発した。
様を連れ出そうものなら、後で黎深様に何を言われるか解ったものではない。
もしかしなくても追い出される可能性もでてくるだろう。

「大丈夫よ。黎兄様には文を書いておくから。・・・ダメかしら。」
「え・・・う・・・。わかりました。」

潤んだ瞳で見つめられて断ることが果たして出来るだろうか。
答えは否だ。
せめてもの救いは、今日はあの常春が来れないことか。
あいつには絶対会わせてたまるか。

「絳攸?文も書けたし、行きましょう。」
「あ、はい。・・・ですが、本当にいいんですか?」
「大丈夫よ。」

そう言って、は心配そうな絳攸の腰元に揺れる佩玉に僅かに視線を向けた。
そこには花菖蒲が彫られている。
それは王からの下賜の花。

だから、もう大丈夫。

結い上げていない長い髪を紅い石があしらってある簪だけで簡単に纏めてから、は絳攸の背を押した。





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