例え浴びるように酒を飲んでいても、周りの気配には敏感に反応する。
それが生き残る為の術だったから。
夜もふけ、そろそろ寝ようかと思った時だった。
庭院の木陰。
生暖かい風が葉を揺らす。
その後ろに誰かがいた。
殺気は微塵も感じられないし、黎深が付けている影も動く気配がないことから、敵ではないのだと解った。
だからといって、それが誰かまでは分からない。
相手の出方を探っていると、小さく息を飲む音が聞こえたと思ったら、木陰からゆっくりと姿を現した。
誰であろう、それは主上だった。
「あ……の、玲尚書代理に」
口籠もりながらも、なんとか聞きたいという気持ちが見え隠れする。
そんな劉輝の姿を間近で見たの心臓は早鐘を打ったかのように速くなった。
手を伸ばせば届く距離に劉輝がいる。
あの幼くて無力で、いいように虐げられていた劉輝が……今は立派になってここにいる。
でも、まだ告げれない。
一度軽く目を閉じてから、緩んでしまいそうな涙腺をしっかりとしめた。
そして、声音も変えて応えた。
「?彼なら帰ったわよ。」
「え、あ、いや、今のはなしだ。その………、悪かった。」
よくよく見れば、同じ漆黒の髪をしてはいるが、簡単にだが結い上げられて簪がさしてある。
どう考えても女性だ。
それを、気が急いていたとはいえ男性と間違うなんて。
劉輝は素直に謝って頭を下げた。
「え?」
「いや、その……男性と間違ってしまって」
「夜だもの。仕方ないわ。」
ふわりと微笑みを返される。
「怒ってないのか?」
その問いかけに、首をふって答えたは劉輝に椅子をすすめた。
「奇人のお客様?お名前伺ってもいいかしら?」
劉輝が向かいに座ったところで口を開く。
もちろん、表に出てしまいそうな感情は蓋をしてだが。
「余……いや、私は劉輝だ。」
こほんと一つ咳払いした劉輝は、なんと答えようかと迷った挙句、王である事を伏せた。
それが何故だかは解らない。
ただ、なんとなく、この女性には王ではなく劉輝として見てもらいたい。
そう感じたから。
「そなたは黄尚書の」
目的は違えど、客人なのだろうか?
髪に揺れている簪には準禁色の黄色の石がはめ込まれている。
細工も申し分ないその簪をしているのたから、もしかしたら黄家所縁の者か?
けれども、その優しく細められた瞳は紫の光を宿していた。
どこか似た雰囲気。
とはいえ、もう十数年前の事だったが、それでもその暖かい眼差しは劉輝が慕っていた兄のに酷似しているかのようだった。
そんな事を考えていると、相手の声で我に返った。
告げられた名前は――紅。
「…………邵可の妹姫だったのか。」
「あら、兄をご存知なの?」
「ああ。よく世話になっている。」
視線を彷徨わせつつ、ポリポリと指先で頬をかく。
いつも府庫に出入りしていたのをも知っていた。
泣きながら来た劉輝を、邵可は優しく迎えてくれた。
それは過去の私の時と同じ。
なにもかも知っていて、それでも受け入れてくれた。
力や権力を利用しようなんて考えず、ただその場に居場所を作ってくれた。
それが紅家のやり方なのか、また先王の指示だったのかは解らないが。
どちらにせよ、新しい居場所が出来た事に代わりはない。
劉輝にとって、邵可が居場所を作ってくれた。
そして秀麗がしっかりと地に足を付けて、進むべき方向を導いてくれた。
「貴方は幸せ?」
「幸せ…だろうな、きっと。」
先程の秀麗の温もりを思い出す。
昔では考えられない日だまりがそこにあるのだから。
けれども、今劉輝が進めようとしている政策が、きっと二人の距離を離していく。
待つのは慣れている。
あの笑顔が、あの優しさが、いつか己に向けられるまで、きっと待てる。
だから、今は幸せなのだ。
これから何が起こったとしても、それは変わらない。
待つ。
――待てる。
昔、清苑兄上を待っていた時のように。
「だが、一つ気になる事があるのだ。昔、私には二人の兄上がいた。二人とも私の前から姿を消してしまったが……。」
――ドクン
「一番上の兄上は見つかったのだが、二番目の兄上の消息は掴めないままだった。死んだと聞かされていたのだが、最近よく似た人物を見かけたのだ。」
「貴方は……どうしたいの?」
「よ、…私は真実を知りたいんだ。違うならそれでもいい。だが、もし兄上なら………」
痛いくらいに気持ちが伝わってくる。
流されそうになる気持ちを踏み届ませる為に、は盃に酒を注いだ。
一気に煽り、酒を継ぎ足した盃を劉輝にも勧めた。
「兄上だったのならどうするの?」
「それは………うわ!」
劉輝に狙いをさだめていたであろう扇子が闇に紛れて飛んできた。
劉輝は、寸でのところでそれを掴むと同時に背中に冷や汗を流した。
紛れもなく手のなかの扇子は氷の長官である紅黎深のものだ。
殺気を感じるのも気のせいではないだろう。
恐る恐る振り返ると、綺麗な笑みを浮かべた黎深が飾り柱に背を預けて立っていた。
「私の妹に何か御用でもおありですか。」
「あ、いや、その」
「なら早く休んではどうです?」
向けられた視線が痛い。
「それとも、今からお帰りになりますか。あぁ、それがいい。軒を用意させましょう。」
「すまぬ。休ませてもらえると嬉しいのだが。」
これではどちらが上か解らない。
苦笑いして立ち上がった劉輝は、手の中の扇子を黎深に返した。
「おやすみ。」
その一言を残して劉輝は部屋に戻って行った。
その背が見えなくなってからようやく黎深が口を開いた。
「寝ろ。」
「……寝ようと思ってたのよ。」
「寝ろ。」
抑えていた感情が堰を切って溢れてくる。
涙が頬を濡らす。
手を伸ばせば届く距離にいるのに…。
なんて言えばいい?
解らないから、感情がめちゃくちゃになる。
伝えたいけど、伝えれない。
相反する気持ち。
解らない。
「だから言ったんだ。」
怒ったような、呆れたような、そんな黎深の溜息が落ちたと思ったら視界がふわっと浮き上がった。
黎深によってお姫様抱っこをされたは、黎深の肩口に顔を埋めた。
「泣き言は聞かんぞ。」
「意地悪ね。」
鼻で笑った黎深は、泣き続けるを部屋まで連れて行った。
そしてが泣き疲れて眠るまで、黎深は何も言わず傍に居た。
漆黒の髪を梳きながら。
時折漏れる泣き言を聞きながら。
それでも何も言わずに傍に居た。
「あんな洟垂れに流してやる涙はもったいない。早く忘れろ。」
赤く腫れてしまった瞼に口付けて、黎深も部屋へと戻った。
せめて、夢の中では笑っていてほしいと願いながら。
そして猛暑も和らぎ始めた夏の終わり、一つの議案が朝廷で可決された。
彩雲国の行く末を大きく開く為の第一歩。
女人の国試受験導入。
あれほど反対していた黄戸部尚書と、紅吏部尚書がそろって賛同の意を表明した事が可決の要因になった。
とはいえ、実験的な導入になり、様々な条件が設けられた。
大貴族、もしくは正三品以上の高官の推薦が必要である事。
確かな素性の者である事。
事前に設けられた適性試験の合格。
最後に、誰一人女人合格者がいなかった場合、以後男子専用に戻し、女人国試受験を廃案とする事。
一見、かなり厳しい条件だったが、王はこれといった反対をせずに首肯した。
新しい風が吹く。
それは想いの風。
行く末までは見えないけれど。
それぞれの願いを乗せて
新しい風が吹く。
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