黄家の四阿で、一人月見酒を楽しんでいた

盃に映った月を揺らしながら、それを何度も煽る。

思いは枯れる事なく生き続け、幾重にも折り重なった。

あの頃は無力だったこの手は、今は望むものを手に入れるだけの力をつけた。

「劉輝……清苑兄様………。」

虐げられていた過去。

それでも、清苑兄様がいた。

劉輝がいた。

だから私は生きてこれた。

あの私利私欲がどす黒く渦巻く宮城の中で。

あの頃は―――。















「いつまでも過去に縛られている………か。」
「捨てろ。」

突然聞こえてきた声に振り向くと、そこには黎深がいた。
先程までの正装とは違い、休む前の砕けた装いだったが、その尊大な態度は変わらないようだ。
そう思っているも、事が終わった後に湯あみをし着物も着替えている。
の時に必要な結い上げていた長く艶やかな漆黒の髪も、今は役目を終え下ろされていた。
頬にかかっていた髪を耳にかけながらは続けた。

「そんなに簡単な事ではないわ。」
「簡単な事だ。」

ふん、と鼻を鳴らして黎深はの前に座った。
そしての手から盃を奪いとり、注いであった酒を一気に煽った。
ことん、と軽い音と共に卓子に盃がおかれる。

「いつまで引き摺っている。」
「………わからない。」
「お前の母はお前をいいように利用したんだぞ。」
「それは否定しないわ。でも、あの時、あの場所に、確かに私は存在したの。」
「百万が一そうだとしても、私がいないと言えばそれが真実だ。」

なんとも強引な理屈である。
けれども、強引だからこそ心が軽くなる時もあるのは事実だった。
ひねくれた愛情表現。
これでも百合姫のおかげでかなりマシになった方だと、過去の記憶を手繰り寄せた。
不器用な黎深が、それでも守ろうとしてくれる事実が一番嬉しい。

「相変わらず強引だな。それではの過去を否定しているのと何ら変わりはないだろう。」

艶やかな声に振り向くと、鳳珠が優雅に回廊を渡ってくるのが目に入った。
人払いしているのか、仮面を被らずに素顔のままだった。
夜とはいえ、昼間の暑さがまだ残っている。
四六時中仮面を被り続けていると、さすがの鳳珠も倒れてしまうだろう。

「鳳珠……お前だって知っているじゃないか。あんな過去はない方がいい。」
「いいか悪いかはが決める事だ。お前や私が決める事ではない。」

黎深の隣に腰を下ろした鳳珠は、そう言ってを見つめた。
答えを急かすでもなく、ただ黙って待ってくれている。
は一度目を閉じて、深く深く息を吐き出した。
もやもやした気持ちが晴れていく。

「ありがとう、鳳珠。私が今こうしていられるのは、黎深と鳳珠のおかげよ。」

嘘偽りない事実。
感謝の気持ちを告げて微笑みを向ける。
それが恥ずかしかったのか、黎深はふいっとそっぽを向いてしまった。

「こんなヤツに礼を言う必要はない。」
「それこそ、が決める事だ。」

鳳珠の言葉に、そっぽを向いていた黎深が食って掛かる。
また言い合いになりそうだと口を挟もうとしただったが、それは杞憂に終わった。

「ところで、あの娘を寄越したのはお前か、黎深。」

鳳珠の真剣な面持ちに、僅かに咳払いした黎深も真顔に戻った。
それはいつも見ている官吏の――尚書の顔だった。

「いいや、それに関しては絳攸に訊いてくれ。」
「実際に見てもらった方が早いと思ったんでしょうね。」

李絳攸――紅黎深と百合姫が手塩にかけて育てた男。
彼は決して無駄な手は打たない。
百の言葉より一の真実。
まったく、この親にしてこの子ありとはよく言ったものだ。

「……女人受験導入など、到底受け入れがたい愚案だ。」
「今度から、と主上が言ったからだろう?だから君は無言で斬って捨てた。」
「当たり前だ。時間が少なすぎる。早急に手を打つべきものと、時間をかけるべきものの区別なぞ初歩の初歩だ。」

論争が激しくなっていくにつれ、鳳珠の端麗な眉間に僅かに皺が刻まれる。

「なら、はどうして受け入れて黙認している?」
「事情が違う。の実力は我々と互角か、それ以上だ。」
「秀麗も国試合格圏内だとしたら。」

黎深がそう言った途端、鳳珠が美麗な口元を歪めた。
もともと頭の固い括りには属さないのが黄鳳珠なのだ。
使えるモノはなんだって使う。
例えそれが女人であってもだ。
力、知識、頭脳あるモノならば受け入れる。
だからこそ、絳攸が連れてきた秀麗を、女と知りながら雇っていたのだ。

政は男だけだという考えは確かに古い。
だが、現実問題として彩雲国の女人すべてが政に興味があるかと聞かれたならば、それは否だろう。
外朝だけでなく、城下の民にも理解して受け入れてもらわなくては、いくら法案を通したとしても無駄に終わってしまう。
だから、主上が言い出した時に無言で斬って捨てたのだ。
全てに受け入れてもらえるには、あまりにも時間がなさすぎるから。

「それは本当か?」
「ああ。それも上位で。」

自信満々な黎深の言葉に、何を思ったか鳳珠の口角が僅かに上がった。

「衝撃的な結果をもたらせるならば、あるいは……。」
「絳攸のお墨付きだ、間違いない。」

官吏になれないと解っていても、その夢を諦めずに勉強を続けている秀麗。
それを助ける為に、食事会の後に勉強を教えているのが絳攸。
毎回、殺人的な宿題を出しているとも聞いた。
はそんな事を思い出しながら、また一口盃を呷った。


もし、もしもだ。
次の朝廷で主上が鳳珠も納得させられるだけの案を示したならば、女人受験導入が本格的に日の目を見る事になるだろう。
頭の硬いジジイ共や貴族共が反対するだろうが、次期宰相とまで唄われている鳳珠と黎深が賛同を表意すれば黙るしかない。
それだけ、この二人は今の朝廷になくてはならない存在なのだ。
女人が官吏となる事が出来ても、今更私は男装を解く気もない。
であった過去。
となり、朝廷で仕事をしている今。
何より、本当の私は
これは今も昔も変わらない。
けれども、伏せていた方がいい事もある。


物思いに耽っていると、不意に髪を弄られて我に返った。
黎深かと思ったら、意外にも鳳珠だった事に驚いた。
器用に髪を纏められて簪をさされる。

「ありがとう。」
「よく似合っている。」

そう言った鳳珠は、の耳元の零れ落ちた髪を掬いとって、そっと口付けた。
流れるような動作に、舞いでも見ているかのような優雅さを感じる。
その向けられた視線さえも……。
は恥ずかしさのあまり、目を伏せた。
いくら絶世の美貌の鳳珠に抵抗力があるとしても、こう不意討ちにされるとその優雅さに頬が染まってしまう。

、私と結婚」
「許さんぞ!!!」

いい雰囲気だった空間に突如割って入ったのは、存在さえも綺麗に消されていた黎深だった。

「絶対に許さん!は誰にもやるつもりはない。」
「一つくらい重荷をおろせ。百合姫の事は仕方ないが、は黄家がなんとかする。」
「ダメだ!」

「……私に決める権利はないの?」

白熱した空気にポツリと零れた鈴の音。
の言と、首を傾げた時に揺れた簪から落ちた音。
それが場の空気を和らげた。

「ふん、新作だ。受け取れ。」

ふてくされながら黎深は袂からある物を放り投げた。
月明かりを受けながら空を舞うそれは仮面。
反射的に鳳珠は仮面を掴み取ると、麗しい顔に嫌悪の表情を刻んだ。
鳳珠の仮面はすべて黎深が当代一の名彫師雅旬に造らせているものだが、今回は一体どんな表情なのだろうか。
が鳳珠の手元を覗き込むと、なんとも体調の悪そうな色合いの仮面が目に入った。

「兄様……。これはないんじゃないの?」
「これを付ければ、さすがの戸部尚書も夏の暑さが堪えたのかと心配される事請け合いだな。どうだ、この色合い!苦労したんだぞ。」
「いらんわ。持って帰れ!!」

沸々とした怒りをぶつけても、黎深は素知らぬ顔。
先程の意趣返しといったところか。
無言の攻防――いや、無言の攻攻が続いている。
なんとも平和な光景だ。
そんな二人の言い合いを肴に、は酒を空けていった。







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