ひんやりとした霊気漂う山中に、似付かわしくない声が落ちた。
日も替わり、そろそろ子の刻になろうかという時。
貴船の龍神、高淤神はくくっと笑みを浮かべ、腕の中のを覗き込んだ。
肩口までの艶やかな漆黒の髪に、透き通った蒼い瞳。
その瞳に高淤神を映して、は無邪気に微笑んだ。
「迎えが来た。」
「むかえ?」
「ああ。何か困った事があればいつでも呼べ。晶霞、晶瑛が共に守った子だ、必ず力になろう。」
愛しそうに頭をなぜた後、高淤神は神座から立ち上がった。
◆◆◆第一話◆◆◆
昨夜晶瑛の命の火が消えてから、高淤神は異邦の影どもが貴船から消えた事を伝えに安倍邸へと翔んだ。
そしての事は内密に晴明にのみ伝えた。
大事な預かりものがある、と。
誰を寄越してくるかと思っていたが、あの子供か。
異邦の影どもが消えたといっても、何か手がかりくらいは残っているかも知れないしな。
それも探りに来たのだろう。
そんな昌浩の謝礼の声が静寂に支配された山全体に響き渡った。
本宮までは距離がある。
確かに貴船神社の御神体は山そのものだが・・・。
「くくっ。退屈させないねぇ。」
まさか山そのものに礼をするなんて、さすがの高淤神も考え及ばなかった。
人は時として、神の考えを凌駕する。
あの子供のことだから、今から都に戻って最近起こっている神隠しについても調べるつもりだろう。
おそらくそれは窮奇に繋がる糸だ。
なら、誰を寄越した?
溢れ出る神気を抑えるべく、人身をとった高淤神は船形岩にゆっくりと降り立った。
その腕にはもちろんを抱いている。
人間の気配は山中から遠退いていく代わりに、一つの神気が登ってくるのが解った。
片目を眇めながら、前方を見据える高淤神の前に一人の神将が顕現した。
鳶色の長い髪が微かにそよぐ。
「ほぅ。木将六合か。」
高淤神の言葉に声を出して答えることはせず、寡黙なまでの神将はすいっと頭を下げた。
「預かり者だ。晴明から聞いているだろお。」
黄褐色の瞳が高淤神の腕の中の幼子をとらえた。
六合とてすべてを聞いたわけではない。
ただ貴船に赴いて、高淤神から大事な預かりものがあるそうだから受け取ってこい。
そう伝えられたが、まさかそれがこのような年端もいかない子供とは。
表立って顔には出ないが、僅かに細まった瞳が物語っていた。
「不審がらずとも、これは晴明の妹だ。」
そう告げる高淤神に、六合は黄褐色の瞳を見開いた。
今、この龍神はなんと言ったのか。
瞬きするのも忘れて、六合は無邪気な笑みを浮かべているを見つめた。
「晴明の・・・妹?」
「ああ、正真正銘安倍晴明の妹だ。彼の母の妹より託された。我らの知らないところで色々と事情があったらしい。名は。」
差し出された子供を六合は躊躇いがちに受け取った。
「まぁ、そんなわけでな。頼んだぞ、神将。」
「たかお?」
「案ずるな、約束は違えん。」
六合の腕の中で高淤神に向かって差し伸べられた小さな手。
それをとる代わりに、頭にそっと手をやってから高淤神は地上から脚を離した。
ゆらりと浮遊して人身から本来の龍神の姿に戻り、凄まじいばかりの神気ともに上空へと舞い上がり、消えた。
六合はただ無言でその姿を見送ることしか出来なかった。
六合はつんつんと髪の一房を引っ張られて我に返った。
「あなたはだれ?」
「十二神将が一人、木将六合。」
純粋無垢な瞳で問い掛けてくるに答えてから、その小さな体を風から護るように肩を覆った長布を被せる。
そして昌浩と物の怪とは別行動をとり、十二神将白虎の風に乗り安倍邸へと戻った。
自室で六合の帰りを待っていた晴明は、庭に舞い降りた風を感じて書物に向けていた顔をあげた。
「六合よ。高淤神からの預かりものとは一体何であった?」
晴明の問いに、相変わらず表情の読めない相貌をした六合が無言で前を覆っていた長布を肩へと纏わせた。
その腕の中ですやすやと眠っている幼子。
高淤神からの大事な預かりものとは、この子供のことであったか。
だが、一体・・・。
「妹だ。」
「・・・高淤神のか?」
「違う。お前のだ、晴明。」
さすがの百戦錬磨の大陰陽師も、こればかりは唖然として六合の穏やかな黄褐色の瞳を見やった。
末孫の昌浩よりも十歳は下であろう。
孫なら解らなくもないが、妹となると・・・それはこの数十年余り何かしらの結界に取り込まれていた事になる。
起こさぬように気を配りながら、晴明は幼子の体の上に手をかざした。
意識を集中させ、口の中で短い真言を唱える。
ぽうっと温かい光が幼子の中に見えた。
それを確認した晴明は、かざしていた手をのけ、ふむと腕組みした。
手に感じた僅かばかりの術の残滓。
そして体内に隠されている天孤の天珠。
間違いなく自分と同じ血を分けた妹だ。
「して、名は?」
「。」
「えらく年の離れた兄妹だな。」
妻戸に寄り掛かりながら事の次第をみていた白虎が言葉のみを残して隠形した。
考えなくとも、異界にいる神将たちに伝えに行ったのだろう。
やれやれと短く溜息を吐き、晴明は六合からを受け取った。
「六合。すまんが、昌浩を頼む。」
「解った。」
六合が隠形して昌浩の元へと向かったのを見届けることなく、晴明は腕の中で眠るを目元を緩めて見つめた。
もう、一体何年前になるだろうか。
母と・・・天孤の母と別れたのは。
ぼんやりとしか面影は思い出せない。
けれども、確かに母の愛はこの身に刻まれている。
この子は・・・否、母上は何を背負っているのか。
結界に隠してまで護らなければならないという事は、それだけ危険な状況下にいるという事に他ならない。
・・・天孤なりの事情か。
「まったく、休む間もないの。」
蔀戸から見上げた空に一つの星が煌めいた。
それはまぎれもなくの宿星だった。
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