◆◆◆第二話◆◆◆
そろそろ夜も明けようかという刻。
部屋の主とはすでに目覚めていた。
しばらく晴明を見つめていたは、視線をその後ろへと移した。
隠形しているので徒人の目には映らないが、天狐の子であるには並外れた見鬼の才がある。
晴明の後ろに隠形したまま控えているのは、六合と天一だった。
にとって見知った顔は六合しかいない。
昨日、高淤神の元にを迎えに来たのは六合。
そして、あと一人。
六合とをここまで運んでくれた風将白虎。
といっても、いつの間にか寝てしまっていたのでその後の事は解らない。
何故ここにいるのか。
目の前の老人は誰なのか。
自分はこれからどうなるのか。
解らないことばかりで小首を傾げながら、はその薄紅色の唇を開いた。
「あなたはだれ?」
「安倍晴明と言って、お主の兄にあたる・・・と言えばいいのかの。」
「・・・あに?さま。」
「こんなに年の離れた兄妹もそうはいまいが。」
穏やかに目尻を細めた晴明がほけほけと笑みをこぼした。
今まで外界を知らなかったにしてみれば、何もかもが新しいし知らない事ばかりだ。
本来そのような事を教えて、また育ててくれるはずの母はいない。
何処にいるかも解らない。
貴女に危険が及ぶから・・・そう言って晶瑛に託されたのだけは記憶に残っている。
そんな晶瑛も命尽きたと高淤神が言っていた。
頼るものは今目の前にいる晴明のみ。
高淤神も何かあれば呼べと言っていたが、本来ずっと傍にいるわけにもいかないだろう。
相手は日本で五本の指に入るほどの神なのだから。
ならば・・・やはりずっと自分の傍にいてくれるのはここにいる晴明たちになるのか・・・・・・。
昨日今日会ったばかりのこの人たち。
どう見ても悪い人のようには見えないが、それでも幼子の心には普通ではない寂しさが湧き上がってきた。
今まで守られていた場所がもうない。
母上が・・・晶瑛が・・・傍にいない。
私は・・・・・・一人ぼっち。
抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出た。
「いかん。」
ワナワナと震えるが一筋の涙を零したのと同時に、霊力の光りが天へと凄まじい勢いで駆け上っていく。
それが爆発したらどうなるか・・・。
都を覆う晴明の結界が壊れるどころか、今昌浩が決着をつけようとしている窮奇にまでの存在が知れてしまう。
急いで印を切り、真言を唱えようとした矢先・・・、異界にいたはずの青龍がその姿を現した。
おそらくこの霊気を晴明のものと勘違いして出てきたのであろう。
それほどまでに晴明との霊気の質は酷似していた。
が、実際発しているのは見たことも無い幼子からだった。
戸惑う青龍を他所に、晴明は止まっていた真言を再度紡いだ。
立ち上がり暴れようとするの力を抑えるべく、晴明の霊力がそれを押さえ込もうとする。
二筋の光りが絡まりあい、ぶつかり合い、互いが互いを消し去ろうとその力が反発しあう。
押されているのはかと思いきや、稀代の陰陽師である晴明の方だった。
額に焦りの色が濃くなる中、黙っていた青龍が泣きじゃくって力を暴走させているの方へ近づいた。
ただ無言で、静かに近づいていく青龍。
その気配を察したが、涙に濡れた顔を上げた。
しゃくり上げながらも見上げたと青龍の視線があう。
その瞬間、暴走していた霊力がふつりと消えた。
呆気に取られたのは晴明と、はらはらと事の次第を見守っていた天一、そして表情一つ変えない六合だった。
そしてもう二人・・・。
「何事ですか!じい様・・・・・・」
「晴明、これは・・・・・・」
どたばたと夜の空けきっていない廊下を走ってきた昌浩と物の怪が、晴明の部屋の妻戸を勢いよく開けた状態で暫し固まった。
見たこともない幼子がそこにいるのだから仕方の無いことだろう。
目を見開いて固まっている二人に青龍が鋭い視線を投げつけてから異界へと消えようとした矢先、その肩布を小さな手に引っ張られた。
深い夜の湖のような蒼い瞳を細めながら振り返ると、同じく湖のように澄んだ涙を溜めた蒼い瞳が青龍を捕らえた。
「離せ。」
「・・・・・・いや。」
「離せ。」
「いや。どこにもいかないで。」
の搾り出した声は震えていた。
それが何を意味するのか解った青龍は掴まれていた小さな手を振り払うどころか、逆にを抱き上げていた。
眦に堪えきれずに溢れている涙の雫を拭ってやり、まだ動けないでいる昌浩と物の怪の横をすり抜けて外へと消えた。
青龍の物言わぬ行動に軽く瞠目した晴明だったが、扇を開いて微かに緩む口元を隠した。
あの頑固で融通の利かない宵藍が、自分の命なしに自らあの子の手を取りおったわ。
それはが青龍に認められたという事に他ならない。
晴明自身は孫の昌浩について欲しいと願ってはいるものの、騰蛇のことを未だに引き摺っている青龍が素直に首を縦に振る事はなかった。
つく相手こそ違えど、も晴明の力を――天狐の力を引いている。
なら、それはそれでよいのではないか?
今まで頑なに他をも寄せ付けなかった青龍が、晴明以外で自ら選んだ人に他ならないのだから。
これで少しでも融通が利くようになってくれれば、晴明にとっても万々歳なのだ。
色々と思いを馳せていた晴明だったが、ようやく立ち直った昌浩の声に意識を戻された。
「じい様、一体何があったんですか?」
「そうだ!晴明、あの子供は一体何者なんだ。」
「妹だよ。」
「!!!母上が・・・・・・。そんな、いつの間に・・・・・・・・。」
「吉昌も隅に置けないねえ。そうかそうか。」
器用に後ろ足だけで立ち、前足で腕組みをしてうんうん頷いている物の怪と、あまりの事に言葉をなくしている昌浩。
が、どちらも真実に掠りさえしていない。
「誰が吉昌の子だと言うた?早とちりなのも大概にしておかないと、いつかは痛い目に遭うぞ。」
「は?! え!なら・・・・・・・・、青龍の!」
「昌浩や、じい様は悲しいぞ。いつからそう物事を勝手に自己解釈で決め付けるようになったのか。小さい頃は最後まで人の話しを聞けるいい子じゃったというのに。はぁ。まったくもってじい様は情けないぞ。」
おいおいと泣きまねをしながら目元を押さえていた着物の端からちらりと昌浩を盗み見すると、案の定あんぐりと口を開いたままで、それでいて次の瞬間にはわなわなと拳を握りしめて震えている姿が目に入った。
毎回の事ながら、からかいがいのある孫よのぉ。
「じい様!なら一体誰の?」
「なんじゃ、わからんのか。わしじゃよ。」
「なんだ。じい様の妹だったんですか。・・・・・・って、え〜ッ!!!」
「晴明!!!本当かそれは!」
「わしが嘘を言ってどうする。」
顎が外れるのではないかと思われるくらいの大きな口を開けた昌浩と物の怪。
驚愕するのも頷けるが・・・、何もここまで面白いくらいに反応を示さなくともいいのだが。
暫し呆然とする昌浩とは違い、いち早く立ち直った物の怪は隠形していた六合のもとに歩み寄った。
いつも表情を崩さない寡黙の神将が、今はくつくつと笑いを堪えているのか肩を微かに震わせている。
そんな事実に少しばかり驚きながら、物の怪はその夕日のような紅い瞳を向けた。
「六合。お前か?」
「ああ。昨日高淤神から預かってきた。」
「・・・そうか。」
先日高淤神が昌浩に憑依したときの帰りに何かしていたが、それがこれだったというわけか。
だがそれにしても納得いかないのが、妹と晴明の年の差だ。
晴明はもう八十を超えている。
その母が天狐だということを考慮しても、なら父はどうだというんだ。
あれは間違いなく人間だった。
しかも既にこの世を去っている。
器用に腕組みしながら、物の怪は首を傾げた。
「結界だそうだ。」
抑揚の無い声で告げられた答え。
ぴくりと長い耳を揺らし、視線のみを六合に向ける。
黄褐色の瞳と深紅の瞳が無言で交わった。
「そうか。」
「ああ。」
「青龍が付いたのか?」
その問いに六合が答えることは無かった。
何故なら彼自身も知らない。
青龍自らその手を取ったのだから、それが付いたということならそうだとしか返しようが無い。
すいっと細められた黄褐色の瞳で見つめられた晴明が物の怪の問いに答えた。
「そうじゃよ。」
「そうか・・・。」
「まあそれはさて置き、昌浩。お前、今日退出したら東三条殿に赴いて、彰子姫の様子を見て参れ。」
「え!彰子に何かあったんですか?」
急に彰子の話しを振られた昌浩が顔色を変えた。
彰子といえば、天下の左大臣藤原道長の一の姫であり、異邦の大妖に狙われている。
その魔の手から救おうと今昌浩が走り回っているところだ。
「大臣様から表立って何の知らせも来ておらんが、ちと気になるでの。」
末孫をからかう時とは違い、何かを思案するような面持ちで少し開いている格子から黎明の空を見上げた。
東三条殿を覆う結界。
一の姫を守る為に晴明自らが凄絶な力を込めて結んだ護りの壁。
それが揺らいでいる。
桁外れの見鬼の才を持っている彰子様がそれを見過ごすはずはない。
なら、知らせてこれない何らかの理由があるはず。
思い当たる節はないではないが・・・。
早めに策を講じておかないと取り返しのつかない事にもなりかねない。
彰子様の事もそうじゃが、のこれからの事も考えていかなければのぉ。
身体も心も休まるのはまだまだ先のようだ・・・。
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