戸部尚書の雑用係として、秀麗が外朝で働きだしてはや十日が過ぎた。
その間、吏部では大変な惨事が引き起こっていた。
仕事をするのは一年のうちで数えるほど。
そんな怜悧冷徹冷酷非情の氷の長官が、玲吏部尚書代理の手腕で毎日仕事をしている。
いい事なのだが、その雰囲気に――悪気に――やられてしまっては仕方ない。
まだまだ吏部官吏も人格改造が必要かな?と、は綺麗になった机案に頬杖をつきながら考えていた。
勿論、仕事を終えた吏部尚書は、満面の笑みを浮かべて舞い踊るように室から出ていった。
行く先は聞かずとも容易に想像がつく。
今頃、書翰や本を運んで走り回っている秀麗の手伝いでもしてるだろう。
「やれば出来るんだけど……何、あれ。」
綺麗に片付いた尚書の机案の上に書翰が一つ。
かたりと音をたて立ち上がったはその書翰を手に取った。
紐解き中を見ると、どうやら急ぎの用件だ。
しかも、届け先はご丁寧に主上宛てになっている。
黎深なりの気遣いといったところか。
先日は扉越しに垣間見ただけ。
今日は会ってこいという事だろう。
まだ……まだ自分がであったとは告げれない。
いや。
これから先、告げる事があるかないかも解らない。
だからここに居るわけではない。
だからここにいる。
あの頃の自分はもう居ないから。
「全く…。」
誰かに行かせても問題ないが、機能している官吏がいないのだから仕方ない。
書翰を持て余しながら、も吏部を後にした。
回廊の一角で、双花菖蒲が暑さに負けずに走り回っている秀麗を見ていた。
艶やかに装飾のされてある柱に腕をつきながら、楸瑛は口を開いた。
「にしても、君も凄い事を考えつくもんだ。人手の足りない戸部に……しかも黄尚書個人の雑用係として秀麗殿を放り込むなんてねえ。」
「一緒にくっついて行った燕青殿も遠慮なくこき使われているらしいな。」
話を振られた絳攸が思い出したかのように呟いた。
「この上なく有能であるが、この上なく変人。全てが謎に包まれている黄戸部尚書か。秀麗殿は今年人生最大の厄年かもね。」
春には貴妃として後宮に入り命を狙われ、今は侍憧の真似事で魔の戸部でこき使われている。
まったく、起伏にとんだ人生とはまさにこの事だろう。
抱えきれないくらいの本を持って角を曲がっていった秀麗から視線を外した楸瑛の目に、今度はもう一つの噂の主が飛び込んできた。
秀麗とは対照的に、書翰を一つだけ持ってのんびりと歩いている。
「絳攸。君のもう一人の上司殿が歩いているよ。」
「様が?なら、黎深様が仕事を片付けたと言う事か……。」
「本当に彼の人は凄いね。」
「まったくだ。行くぞ。」
「行くって、何処へ。」
その一言で、絳攸が切れたのは言うまでもない。
わなわなと拳を震わせて、次の瞬間には空高らかに罵声が響き渡った。
「貴様、何を聞いていた!!」
「何って?」
「この常春がッ!!」
声高らかに怒鳴りながら楸瑛の襟首を掴みあげた絳攸は、肩を叩かれてそのままの勢いで振り返った。
そして絶句した。
「絳攸。そんなに怒ってどうしたんだ?」
他でもない、自分の上司がいたのだから。
二の句が繋げないまま、どうにか口を動かそうとする姿にまず楸瑛が吹き出した。
悪いと思っているのか、声は極力殺しているものの、肩の震えは止まらなかった。
「楸瑛ッ!!!」
「くくっ。……まぁ、落ち着いて。」
「これが落ち着いていられるか!!!」
「仲が良いんだね。」
「ええ。親友ですから。」
「誰が親友だ!腐れ縁の間違いだ。」
そんな絳攸の様子を見ていたは、楸瑛の真の意味を悟った。
彼はいつも真面目な絳攸のガス抜きをしてくれているのだ。
いい関係だと思った。
こんな二人が劉輝の傍に居てくれる。
なら、………。
「絳攸、急ぎの書翰を主上に届けてくれないか。」
「解りました。」
「あの、玲吏部尚書代理。」
呼ばれて振り返ったは、楸瑛の物言いたげな視線に臆する事なく対面した。
藍家の品定めといったところか、それとも……。
紫暗の瞳と蒼の瞳が見えない火花を散らしているかのようだった。
「なにか。」
「いえ。先日、貴方と同じような紫暗の瞳を持った美しい女性に出会ったものですから。」
「なっ、お前の頭は常にそれか!」
一度は放していた楸瑛の襟首を、絳攸が再び掴み揺すった。
楸瑛は絳攸にいいようにされながらも、から視線を外さなかった。
「私と同じ?なら、黎深の妹姫かな。」
「ええ。」
「様は姫をご存知なのですか?」
「知っているもなにも、黎深によく聞かされているからね。それよりも………、急ぎの案件なんだが?」
そう言って、絳攸の手元の書翰を見やる。
謝罪の言葉述べた絳攸は楸瑛を引き摺るようにしての前から辞した。
もちろん、検討違いの方向に行きかけたのを楸瑛に直されてだが。
そんな菖蒲の双花が回廊に消えていくのを、は微笑まし気に見ていた。
そして彼らが見えなくなると、溜息を一つ吐き出してから静かに告げた。
「黎深。かけるべき言葉が解らずに会えなくて悩むくらいなら一緒に帰るべきだとは思わないか?」
「そ…そんな事はない。断じてないぞ!」
の言葉を受けて、草葉の影から出てきた黎深は回廊に上がってきた。
秀麗の元に行ったはいいが、どうやって前に出たらいいのか解らず戻ってきた。
が、分かっている事を口にされると、どうも癪に触る。
「そういうお前こそ、何故行かなかった。」
「私はいいんだよ。」
「人の好意を無駄にして、理由もなしか。」
その言葉に、先を歩いていたの足が止まった。
何か言い返してくると思っていた黎深だが、振り返ったの瞳を見てそれ以上言葉が続かなかった。
物寂しげな紫暗の瞳が揺れていた。
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