突然の殺気に、考えるより早く体が動いた。

それは幼い頃に叩き込まれた反射神経のせい。






いつも懐に隠し持っている短剣が空気を鋭く切り裂いた。
それは、戸部の窓ガラスを割り侵入してきた賊の足元に突き刺さった。
の隣にいた景侍郎が驚きのあまり息を詰めたのが解ったが、は再び短剣を構えた。
そして戸部の主、黄奇人も侵入者に対して身構えた。
賊は二人。
何が狙いかはまだ定かではない。
ジリッと剣を構えた賊が間をはかる。
そんな張り詰めた空間に突然零れたのは、少年にしては少し高めの驚きの声だった。

「ちょっと、なんですかこれ?」

届け物を終えた秀と燕青が運悪く帰ってきてしまったのだ。
賊の一人が二人の方を向いた。
そして燕青の頬の傷に目を止めた。

「……その傷、貴様」

はその一瞬の隙を見逃さなかった。
一気に間合いを詰め、もう一人の懐に潜り込む。
短剣で出来る事は限られている。
寸分の狂いなく腕の筋を傷つけ、剣を叩き落とした。
それが合図だったかのように、燕青目がけてもう一人が斬り掛かっていった。
燕青は動じる事もなく、手近にあった椅子を振り上げて剣をかわし、そのまま思い切り脳天に振り下ろした。
さすがにこれは効いたようで、賊の一人はその場に倒れてしまった。

「チィッ。」

分が悪いと踏んだもう一人は、傷付いた腕を押さえながら飛び込んできた窓から逃げていった。
後を追おうとしただったが、鳳珠の静かな声音に止められた。
何も言わずに手にしていた短剣を懐にしまうに安心した鳳珠は、原因の一人でもある燕青に向き直った。

「所在が知られてしまったな。今夜あたり、お前の所に大勢の客人が押しかけてくるぞ。私の邸を使うといい。」

仕方ないと諦めていた燕青だったが、黄尚書の思いもかけない言葉に驚きを隠せないでいた。

「ええ?」
「お前がやっかいになっている邸に迷惑はかけたくないだろ?」

確かに、秀麗と一緒にいる所を見られた上、邵可邸に帰ろうものなら間違いなく自分の首が飛ぶ。
静蘭なら笑顔で斬り付けてくるだろう。
その顔が浮かぶ事自体冷や汗ものだった。
だから黄尚書の申し出に躊躇する事なく頷いた。

「そりゃ、有り難い。そういうわけだから、秀も一緒な。」
「えっ!なんでそうなるわけ。」
「文は俺が書いておくからさ。後、悪いんですけど、玲尚書代理も一緒にお願いできますか。」

困ったように頬を掻きながら燕青が告げた。
の身を案じての事とは解っていても、さてどうしたものか。
あの程度の賊ならば自分一人でもなんとかなる。
ならなかったら、紅家の影が手を出すだろう。

。邸に地酒が届いている。」
「行く!」
「さっすが、黄尚書。」
「………仕方ないな。」

鳳珠の言葉に即答してしまったは、溜息まじりに同意した。

「ちょっと吏部に戻ってくる。」
「ああ。」










時は過ぎ、夕刻の邵可邸で、一人のやり場のない叫び声が響いた。
それがこの彩雲国の主、紫劉輝であると誰が想像しただろう。

「な、な、なんということだ!!!」
「申し訳ありません。主上がお越しになる事は、娘が帰ってきてから伝えようと思っていたものですから。」

文を握りしめてワナワナと震える劉輝に、心底申し訳なさそうに邵可が謝った。

「つくずく間が悪いですね。」
「諦めて城に帰るか。」

お忍びでやってきた主上の護衛半分、からかい半分で付いてきた楸瑛と絳攸が口をそろえた。

「いやだ!だいたい、どうしてお前達もここにいる?」

面白そうだったから、なんて理由は言えずに視線を彷徨わせる二人。
二人の答えを待たずに、劉輝はまた文に目を戻した。
秀麗に会いたい為に、どれだけ眠らない日が続いただろう。
女人国試導入案を書き上げたから、こうして会いに来たというのに…。
秀麗に会えないどころか、燕青とかいう知らない男と黄東区の邸にいるなんて。

「だいたい、この燕青とかいう男は誰だ?」
「私の昔の知り合いですよ。」

それまで黙って身支度をしていた静蘭が口を開いた。
兄の『昔の知り合い』に劉輝が僅かに眉根を寄せる。
おそらく、流罪になった時にでも知り合った仲なのだろうと察しが付いた。

「それでは私も行って参ります。」
「余も!余も行くぞ。」

間髪入れずに劉輝が挙手した。
それを微笑ましく見ていた静蘭だったが、腰に剣を佩いてから一言告げた。

「皆さんも、いらっしゃるなら必ず剣を持っていってくださいね。」

その一言で、一気にその場の空気が冷えた。
楸瑛の瞳に険しさが宿る。

「どういうことだい?」
「茶州から流入している賊が追いかけている男と、うちの居候がよく似た特徴をしてまして。おおかた本人と間違われたのでしょう。」
「では一緒にいる秀麗も危ないではないか!」

事態の深刻さが飲み込めた劉輝は青くなった。

「大丈夫ですよ。燕青が傍にいるならお嬢様に危険が及ぶことは皆無でしょう。それに、このお邸を借りているくらいですから。」
「黄東区の邸か?…………まさか!」

それまで黙って聞いていた絳攸だったが、彩七区で黄東区にある邸を持っている人物に当たりがついて思わず声をあげた。

「そうです。黄戸部尚書のお邸ですよ。で、どうされます?」

一同を見渡した静蘭に、三人は無言で頷いた。















「ダメだ。」

吏部に戻ったを出迎えたのは、黎深の冷ややかな言葉だった。
が口を開くより早く、黎深が畳み掛ける。
取りつくしまもない。

「黎深。」
「許さんぞ。邸でおとなしくしていろ。」

が何を言うか分かった上での命令だ。
こうして吏部尚書室にいる理由も察しが付いた。
紅家当主絶対服従護衛軍団、"影"が黎深に知らせたのだ。
分かってはいたものの、こっちの言い分を聞かずに決めてしまうのは些か問題がある。
も少なからず情報を握っているのだ。

「茶州州牧、浪燕青が何故今この紫州に来たのかが気に掛かります。」
「やはりヤツだったのか。だが、そんな理由は関係ない。放っておけばいいだろ。」

イライラしているのが、黎深の手によって遊ばれている扇子で分かる。
開いては閉じを繰り返しているのだから。
溜息を吐き出したは不貞腐れている黎深の前に立った。

「黎深。」
「ダメだ。それ以上は聞かんぞ。」
「放っておいてもいいよ。でもそうなれば、秀麗にまで危険が及ぶよ?」
「くっ。秀麗を傷つけるヤツは地獄に送ってやる。」

偽りのない言葉だった。
黎深なら必ずやる。
はそう確信しながらもしっかりと黎深を見つめた。
長い付き合いだ。
黎深が今までにダメだといって実現した事はない。
表向きはない。
だが、こと自身が決めて危険が伴わない限り渋々だが意見を翻す事もあった。
今回は幾分かは危険が伴ってくるが、の力以上ではないはずだ。
それはおそらく黎深自身も解っている。
だからこそ、零れ落ちた言葉には驚かなかった。

「勝手にしろ。」
「ありがとう。無茶はしないから。」
「当たり前だ。」

ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった黎深には笑みを溢した。
もう一度お礼を言ってから踵を返しただったが、扉の前で黎深に細腕を捕まれた。
驚いて振り返ると、その勢いのまま胸に抱き締められていた。

「黎深?」
「お前は本当に鈍いな。私が一番心配しているのはお前の事だ。」

抱き締められている腕に力が入り、黎深の胸に顔を埋める格好になる。
ふわっと香る微かな香に、いつかも同じように抱き締められた事を思い出した。



いつも天上天下唯我独尊の黎深だが、自分が大切にしている人が関わるとこうして心配してくれる。

そんな優しさが好きかもしれない。




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