部屋の隅から漂ってくる異様な気。
もちろん、それに気付いているのは鳳珠と、そして燕青だった。
居心地悪く縮こまっている秀、こと秀麗は全く気付いてはいない。
その事実すら気に留めずに扉の隙間から見つめているのは、他でもない紅黎深その人だ。
「。」
は頭を抱えたくなる衝動にかられながらも、鳳珠の呆れた声に素直に謝罪の言葉を述べた。
「悪気はないんだよ。」
「今に始まった事ではないが……置いてこれなかったのか。」
「無茶言わないでよ。」
あの後の事を思い出して、は僅かに頬を染めた。
そんな会話をしながらも、秀麗は何がなんだか解っていない。
それもそうだろう。
どこかの認知すらされていない叔父の事なんて知りもしないのだから。
幾らでも名乗る機会はあったのに、だ。
だからこそ、こうやって他人の迷惑顧みずに不審人物よろしく、物影の置物になっているのだ。
は一つ溜息を吐き出した。
「あれはあれで満足してるだろうから、放っておいても害はないよ。……たぶん。」
最後の言葉は聞き取れるか解らないくらいの小さな声だった。
出されたお茶を飲み干した燕青が、そこで口を開いた。
「黄尚書、こんな大きなお邸なら、さぞかし庭院も立派なんでしょうね。ちょっと散歩してきていいですか?」
「好きにしろ。」
「あ、迷っちゃ困るんで玲尚書代理に案内して頂けたらな〜なんて。」
ぽりぽりと指で頬を掻きながらを見る燕青の、その言葉の選びように感心してしまう。
なんの事情も知らない秀麗に、疑われずにを連れ出せるなんて。
小さく肩を竦めてから、は燕青と一緒に部屋から出ていった。
夜といっても、季節は夏。
肌にまとわりつく湿気に少々嫌悪感を覚えながら、先を行く燕青に声をかけた。
「私も戦力なのか?」
「すんません。一人でも多い方がなにかといいんで。」
「それを、茶州の州牧が言うかな。」
「な………。いつばれたんですか?」
の言葉に、驚きのあまりピタリと足を止めた燕青。
だが、正体を知られたからといって焦る事はなく、逆に何かに納得したかのようにに問いかけてきた。
「先に鴛洵殿が亡くなられてから、茶州が騒がしくなったと聞いていたのでね。」
「さすが、その若さで尚書代理になれるわけだ。知能もそうですが、武術の腕も相当なもんでしょ?」
「解ったからこそ、こうやって案内を言い訳に連れ出したんだろ。」
降参とばかりに両手を上げた燕青は、一拍後に庭院に降りていった。
迷う事なく進んでいく姿に、案内の必要性がない事を察したは踵を返した。
別に助っ人を降りようというのではなく、ただ単に丸腰だったからだ。
燕青もそれが解ったのか、一度振り返っただけでまた庭に歩を進めた。
はその背を見送ってから、自分にあてがわれた部屋に戻り紅家から持たせていた剣を手にした。
しっくりと馴染むそれを持って、燕青がいるであろう場所に向かう。
案の定、当たりをつけた場所に燕青はいた。
声をかけようとした時、塀を乗り越えてくる人影が見えた。
一瞬敵かと思ったが、燕青が全く身構えないので剣の柄にかけていた手を離す。
歩み寄りながら見ていると、一人、二人、三人と続けて降りてくる。
そして少し遅れてもう一人が、着地したというより転げ落ちたかのように地に足をついた。
そのうめき声に我が耳を疑った。
聞き慣れたその声は、の思ったとおり絳攸のものだったからだ。
驚きを飲み込み、他の三人に視線を移す。
月明かりと、灯籠に仄かに照らしだされた顔ぶれは―――。
「劉輝。」
小さな小さな呟きは空間に溶けていった。
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