その頃、黄家の一室で紅黎深が呻いていた。





何故なら、燕青によって事情説明の為に黄尚書の元に寄越された養い子の絳攸が、とんでもない名前を口にしたからだ。
さすがの鳳珠も、たっぷり三拍の間を置いて聞き直した。

「………なんと言った。」

仮面の尚書の表情を読む事など皆無に等しい。
逃げ出したくなる衝動をこらえて、絳攸は先ほど告げた事を一言一句違えずに再び口にした。

「今、黄尚書の庭院を騒がせているのは紅邵可様家人のシ静蘭、左羽林軍将軍藍楸瑛、あと主上です、と。」

黎深の視線が冷たさを増し、手に持っていた扇子が音を立てて閉じられた。
鳳珠も呆れ半分、憤り半分で頭を抱えた。

「バカ王が。」
「絳攸。どうして洟垂れが城下にいる?」

返答を拒む事すら出来ない空気が絳攸を包み込む。
蛇に睨まれたカエルのような立場に、絳攸の背中に冷たい汗が流れた。
主上が城下にいる理由を言ったら言ったでどうなるか安易に想像がつく。
かといって、養い親である黎深に平気で嘘をつけるほどの神経は持ち合わせていなかった。
どう答えるべきか返答に困っている絳攸の耳に、外の喧騒が聞こえてくる。
が、よりによって………。

「絳攸。夜這いとは何の事だ?」
「ふん。バカ王は治らないか。」
「確かに、バカかもしれません。ですが、愚者と才子は紙一重と言います。」

苦し紛れの言葉をなんとか絞りだしながら、絳攸は上司二人を見つめた。
朝廷随一の歩く知性、鉄壁の理性の持ち主である絳攸だが、知識と経験の差は埋める事はできない。
なんと言葉を返しても、決して目の前の二人の尚書には勝つ事など出来ないのだ。
被害を最小限に抑えるべく言葉を選びながら、何故こういう事態に陥ったのかを説明した。

「ほぅ。あれが私より先に秀麗の手料理を食べるだと?日の目を見れなくしてやる。」
「叔父だと名乗る勇気のないお前に比べれば、あの王もまだマシか。」
「な!何を言う!君には解らんだろ。名乗りたくても名乗れないこの辛さ……。あぁ、私の可愛い秀麗〜。」
「勝手にしろ。私は行くからな。」

いつの間にか絳攸の存在を無視して話が進んでいく。
カタリと音を立てて立ち上がった鳳珠に、笑み崩れていた黎深が我に返った。

「……行くって何処へ。」
を連れ戻す。それだけ腕のたつ人間が揃っているんだ。加勢の必要性はない。」
「黄尚書!危険です。」

鳳珠が気功の達人だとは知らない絳攸が必死で止めようとする。
なにせ、庭院に乗り込んできているのは茶州からの賊。
危険極まりないのだ。
だから燕青も足手まといになるだろう絳攸を、こうして事情説明に寄越したのだ。
それが分かるから尚更だ。
そんな絳攸の気持ちを知ってか知らずか、黄尚書は無言で足を進めた。
絳攸では止められない足を、いとも簡単に止めたのは他でもない黎深だった。

「貴様になど任せておけん!私が行く。」
「お前は隣にいる姪の姿でも見ていればいいだろ。」

静かに告げられた内容に、止めようとしていた絳攸がハッと顔を上げた。
何故なら、燕青とこの邸に来ているのは秀麗ではなく、男の子のふりをした秀なのだ。
それを………。

「黄尚書、あの娘は………。」
「退け。その事を話し合うのはお前とではない。」

次期宰相候補である黄尚書の言葉は、養い親である黎深同様反論する余地すら与えられなかった。
実際、秀麗の事――女人受験の事――を話し合うのは紅吏部尚書とだ。
いくら朝廷随一の才人だからとて、今の自分は両尚書の足許にも追い付いていない。
だから、それ以上何も言わずに頭を下げ、道を開けた。

「李侍郎。」
「はい。」
「あの二人はなかなか役に立った。」

隣を通り過ぎながら告げられた言葉に、絳攸は顔を上げた。
それ以上の言葉はいらない。
それだけで十分伝わった。
絳攸は綻ぶ顔を隠しもせずに、一言お礼を述べた。















その夜、浪燕青を追って黄家の庭にもぐりこんできた者たちは不運としかいいようがなかった。
国内屈指の腕利き五人に加え、突如割り込んできた気功の達人仮面の尚書と、不機嫌全開で八つ当たり気味な黎深がことごとく賊を伸していったのだから。

「……黎深。何しに来たんだよ。」

は剣を振るうのを休める事なく、黎深の隣についた。
そうでもしないと、丸腰の黎深が恰好の餌食になるからだ。
だが、実際は紅家当主絶対服従の影が迫りくる危険から黎深を守っている。
敵を生け捕るのに、このままでは死骸の山が出来上がってしまう。
全く、いい迷惑だ。
溜息を吐きながら、は隣の黎深を見た。
不機嫌全開の黎深は、あろう事か主上に突き刺さるような視線を送っていた。
その視線を避けるように兄である静蘭の背に隠れた主上。

「ふん。たわいもない。」
「……あのね。」
「煩い。戻るぞ。」

それだけ告げた黎深は、いとも軽々との細腰を抱き抱えた。
いつもの事だが、あまりに突然の事で思考が追い付かない。

「嫌だと言っても聞かんぞ。」

例え、いいと言っても聞かないだろう。
天上天下唯我独尊我が儘大王の黎深のいいところでもあり、悪いところでもある。

「そういう事だ。燕青、後はお前たちで何とかしろ。」

黄尚書の言葉に渋々頷き、燕青は抱えられているに礼をした。
そして三人はあっという間にいなくなった。

「やるねぇ。まさか黄尚書が気功の達人だなんてね。」
「全く、あの仮面といい、謎だよな。」

楸瑛の言葉に、坤を一振りしながら同意する燕青。
少し離れたところで主上も静蘭も頷き返していた。



だが、この二人の心を占めているのは仮面の尚書ではなく、黎深によって連れ出された玲吏部尚書代理――玲の事だった。
の剣の太刀筋が、忘れる事など出来ない過去の記憶にあるから。

「兄上………。」
「ああ。だが、今の段階で答えを急がない方がいい。私が調べておく。」
「はい。」

名残惜しそうに、が去っていった方向を見つめていた劉輝だった。




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