涙が出た。
それは悲しい記憶の雫。
恐怖の涙とは違う、優しい涙。
邵可邸の庭に一つの影が動いた。
迷う事なくそれは進んでいき、一本の木陰に隠れた。
影が見つめているのは、絳攸の講義を受けている秀麗の姿。
ある程度見守ってから、影はその場を立ち去った。
そして邸の中へそっと扉を開けて入っていく。
もちろん誰も気付く者などいなかった。
邸の主、紅邵可を除いては。
ずんずんと奥へ進んでいき、ある室の前で立ち止まる。
扉を叩こうとした矢先、中から声がかかった。
「お入り、黎深。」
兄、邵可の声に表情を緩めながら黎深は室の中へと入った。
「兄上。」
「来るだろうと思っていたよ。まあ、かけなさい。」
黎深は促されるままに卓子につくと表情を改めた。
声色も幾分か真剣さがやどる。
そして前置きもなしに黎深は切り出した。
「は・・・」
「気付いただろうね。」
今まで傍に置いていて、決して一人では外出させなかった。
表立って邵可の邸を訪ねる事はなかったが、彼とていつ何処に現れるかは分からない。
だからこそ細心の注意を払っていたというのに。
よりにもよって、養い子である絳攸が連れ出した。
そして出会ってしまった。
「彼女なら大丈夫だよ。」
「ですが・・・。はまだあの時の傷が癒えていない。」
「そうだね。でも今日ここに来たのは彼女の意思だよ。なら、私たちは見守ってあげようじゃないか。」
黎深は邵可の言葉に渋々と頷きながら扇を広げ口元を隠した。
例え、今日ここに来たのはの意思だとしても私はまだ認めたわけではない。
あの昏君はまだまだ洟垂れの甘ちゃんだ。
側近に絳攸と藍楸瑛がついているとしても、まだを任せるには至らない。
なによりが生きている事自体教えてなどやるものか。
考えれば考える程苛立ちが募り、扇で隠された口角が曲がっていく。
目元も剣呑に細められる。
「黎深。」
「解っていますよ、兄上。ええ。解ってます。」
そう言った時、室の扉が叩かれた。
「兄様方、よろしいですか?」
聞こえてきたの声に黎深がギクリと反応する。
どうやらここに黎深がいることすら見通されているようだ。
「お入り。」
「失礼致します。」
礼をとって入ってきたは迷わず黎深の傍へやってきた。
「知っていたのね、黎深。」
「それがどうした。生憎私はそれを教えてやるほど優しくはないぞ。」
「解っているわよ。」
短く告げたは次に邵可へと向き直った。
つい先刻までの兄妹という態度ではなくなり、その存在自体が何か特別なものになっている。
「一つ答えて。清苑公子だと知って拾ったの?」
「先王陛下から頼まれていたのです。他の貴族にいいように利用されないように、見つければそのまま匿うようにと。」
「だが流罪にされた直後には見つけられなかった。清苑を見つけたのは一年後。兄上が紫州へ行く途中だった。」
「そう。・・・ありがとう。」
自分もそうだが、なにより清苑公子を助けてくれていた事に涙が出た。
夕刻とは違った雫が頬を滑る。
無意識に流れ落ちる雫が床に丸い染みを描いていく。
視界が歪む中で紅に抱き締められた。
ふわっと香が鼻腔を霞めていく。
いつもなら安心して任せられるのに、今は感情が先にたった。
「黎深。」
「どうした。弱音でもなんでも聞いてやる。」
「2、3日、口聞いてあげない。」
涙ながらに告げられた言葉に、黎深は灰となった。
ショック状態から抜け出せないでいる黎深の腕を離れて、は再び邵可の前に立った。
涙を拭ってから跪いて跪拝の礼をとり、凛とした声で告げた。
「紅家に心からの感謝を。」
清苑公子を助けてくれた事。
劉輝を支えて、しっかりと立たせてくれた事。
そして私を助けてくれた事。
――全てに、心からの感謝を。
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