その日、朝からある噂が外朝中を駆け巡った。
『悪夢の国試組』の一人で現在吏部尚書代理の肩書きを持っているが、その人物を見知っているのは極々僅か。
いつ何処にいるかすら解らない、幽霊官吏のような存在。
その玲吏部尚書代理が、今日吏部に現れた――と。
思いを含む紫の風
「ねえ、絳攸。君は会った事あるんだろう?」
「誰にだ?」
楸瑛の言葉に振り向きもせずに返す絳攸。
常春の戯れ言にかまけている暇なんてない!というように次々と主上の目の前に書翰を積んでいく。
楸瑛はやれやれと肩を竦めながら、話の続きを口にした。
「誰って、君の尊敬する紅尚書の代理の官吏だよ。確か・・・玲吏部尚書代理と言ったかな。」
「余も聞きたかったのだ。玲吏部尚書代理とはどんな人物なのだ?」
目を輝かせながら見上げてくる劉輝を一瞥した絳攸は諦めに似た溜息を吐き出した。
「知らん。」
「同じ吏部なのだから、知らないのは変じゃないのか?」
「一度くらいは会った事あるんだろう?」
劉輝、楸瑛が疑問に思うのも無理はない。
だが絳攸とて本当に知らないのだから仕方がない。
知らないのだから答えようがない。
自分が国試を受けて外朝で働くようになってから今日まで、そんな人物がいた事すら知らなかった。
それに紅尚書自身からも聞いた事はない。
それにだ!
『吏部尚書代理』なんて役職があった事自体初耳だ。
「知らんもんは知らん!それより仕事を蓄めるな!」
「う〜っ。絳攸・・・ちょっと休憩にしないか?」
「ダメに決まっているだろ。今朝の朝議で貴方がバカ発言かましたんです。休む暇があるんなら、とっとと議案書まとめて下さい。」
「はい。」
しゅんとなる姿はまさに犬そのもの。
楸瑛は吹き出しそうになるのを寸でのところで我慢した。
だが、確かに主上の『女人受験制』発言は現時点では軽率だ。
一度退けられた議案を再度通すとなると、並大抵の努力ではやりきれない。
慎重を期する議案なのに、説得材料も根回しも整わないうちに切り出してしまった。
その気持ちは解らなくはないんだけどね。
まあ存分にお悩みなさい。
未だ絳攸にお説教されている主上を見つめながら、楸瑛はまた違う事に思いめぐらせた。
そしてここにも頭をかかえている人物がいた。
誰であろう、紅黎深その人だ。
よりによって昨日の今日でが出仕するとは思わなかった。
黎深と同じ年に国試を受けて、及第してからずっと傍に置いてきた。
宮城嫌いで最初のうちは渋々出仕していたが、黎深が吏部尚書になってからはまったく来なくなった。
何の為に国試を受けたのか解らない。
いや、本当は知っている。
だが、何故よりによって今日なんだ。
嫌がらせ行為としか考えられない。
扇を弄びながらチラチラと視線を向ける。
黎深の机案の隣に並ぶようにして置かれてある机案。
いつの間にか未処理分の書翰の置場になっていた場所は、今は綺麗に片付いている。
そこにあった分だけ綺麗に処理し終えたは黎深に文だけ残してそこから出ていった。
どうやら昨日の言葉は本当らしい。
「仕方がない。やってやろうじゃないか。」
これで仕事もしないのなら、が口を聞いてくれるようになるのはかなり先の話になってしまう。
それだけはどうしても避けないと。
本気を出せば、一年分の仕事も三日で終わる天才とさえ謳われている。
これくらいの量、二刻もかからないだろう。
嫌われる事に比べれば、易いものだ。
それに、今頃と会っている仮面尚書にこれ以上いい思いをさせてなどやるものか。
八つ当たり気味で黎深は筆を書面に走らせた。
それを見た官吏達は、今日突然現れた玲吏部尚書代理の偉大さに驚きを隠せないでいたとか。
が、それが悪夢に代わるのはそう先の話ではなかった。
「鳳珠。・・・もしかしなくても、戸部は人手不足なのか?」
机案には吏部に負けず劣らずの量の書翰が所狭しと積み上げられている。
床にも散乱している書類の山。
部屋の一角を占めている書架も整理整頓とは程遠い状態。
戸部にやってきたが唸るのも無理ない状況なのだ。
「お前の上司のせいだ。まったく骨のない連中ばかりまわしてくれるからな。」
書翰の間にかろうじて見える戸部尚書、黄奇人は仮面の下で鼻をならした。
ただでさえ少数精鋭を地でいっているのに、本格的な夏の暑さがその官吏達の体力を削いでいる。
倒れる者も続出したおかげで、各部所から適当な助っ人が貸し出されていた。
それも、今日になってやっとだ。
邸に籠もっていたは朝廷の新事実を始めて目の当たりにした。
どうりで最近、絳攸の帰りが遅いわけだ。
主上付きとなってから吏部の仕事は少なくなったとはいえ、上司が上司だけに下官吏に泣き付かれたら断れる程酷い人間ではない。
いつもの事だと思っていた書翰の量の裏に隠された事実に目眩さえ覚えた。
「よければ手伝うよ。」
突然のの申し出に、黄尚書は筆を擱いた。
「・・・。あのくそったれに何かされたのか。なら、いつでも家にくるといい。」
「ありがとう、鳳珠。」
「だからその名で呼ぶな。」
の正体を知っている数少ない人の一人、黄鳳珠。
そして、黄尚書の素顔を知っている数少ない人、玲。
だから久しぶりに出仕したが吏部でなく、ここ戸部へやってきた粗方の理由が分かってしまうんだろう。
『黎深と喧嘩の真っ最中。』
これが理由だ。
昔も何度か喧嘩して、よく鳳珠のもとに来ていた。
が、さすがに今回ばかりは喧嘩の内容が違う。
自身に関する事だったからよけいに腹を立てている。
腹立ち紛れと、現状の確認をする為に出仕した。
「鳳珠。手伝うよ。」
「好きにしろ。」
それだけ言った黄尚書は山のような指示をに出した。
「手加減なしか。」
「当たり前だ。」
肩を竦めながら、は与えられた仕事に取り掛かった。
久しぶりの宮城は何も変わっていなかった。
いや、悪の芽はまだ至るところから根付き、伸び上がっているが、それでも昔に比べれば幾分穏やかにはなったと思う。
回廊を書翰を持って歩きながら、は庭院に咲き誇る花を見やった。
想いはただ一つ、今上帝の事。
若き王はかけがえのない、大切な紅花に背中を押され立ち上がった。
そして、無くしていた片割れの紫花を見つけた。
今双花菖蒲の花に支えられ、地に根をはった。
そう、これからが大切な時期だ。
想い馳せながら、は久しぶりの府庫へ足を踏み入れた。
「邵可様、こちらの書を返しに参りました。」
「おや、殿。今日、出仕されたのですか。」
書架の奥からひょっこり顔を覗かせたのは、ここ府庫の主紅邵可だった。
苦笑いをしながら、は一つ頷いた。
普段は昼行灯のふりをしているが、本当は誰よりも鋭いと知っている。
昨日、黎深に叩きつけた言葉でが出仕すると分かっていたのだろう。
些かの驚きもなく、邵可はを招き入れた。
「すまなかったね。」
「いいえ。あの頃の状況を考えれば、致し方ない事だと思います。」
「そうかい。」
「ええ。それに、今でよかったと思います。私もこうして官吏の身になりましたから。」
だから力になれる。
まだ会ってはいないけれど、いつかは傍で支える事が出来るから。
外朝で女の身を曝すわけにはいかないから、男装してはいるけれど、根底にあるものは変わらない。
「そうだね。」
「では、まだ仕事がありますので。」
「吏部の・・・ではないようだね。」
「ええ。吏部での自分の仕事は全て片付けてきました。後は尚書自らがして頂かなくては。」
真面目に仕事をしているなどとは思わなかった。
黎深が毎日しっかりと仕事をしていれば、絳攸の帰りが遅くなるはずもない。
それに、昔からそうだ。
やる時とやらない時の差が激しすぎる。
こつこつと・・・と、そんな事を彼に求めても無駄だと知っている。
天上天下唯我独尊我侭大王な黎深なのだから。
「あれは・・・やる時はやるんだけどね。」
「大丈夫ですよ。今頃はちゃんとしてると思います。もし今日中に片付かなかったら口をきかない日が延びるだけですから。」
「なら、頑張っているだろう。君に口をきいてもらえないと、かなり凹んでいたからね。」
「ええ。この暑さで官吏達の疲れも極限にきていますから、少しでも早く楽にしてあげたいですし。では、仕事に戻ります。」
「殿もあまり無理はしないように。」
「ありがとうございます。」
そしては戸部に戻っていった。
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