「よかったのか?」

窓際の椅子に座り、ぼんやりと月明かりに照らしだされた庭園を見ていたは、聞こえてきた美声に振り返った。
戸口に立っていたのはこの邸の主、黄鳳珠だった。
昼間と違って、綺麗な顔を隠してしまう仮面は外されている。
もちろんそれはの前でだけに限られるが。
その彼の眉根が僅かによった。
の悲しそうな表情を見たからだろう。
無言での前に歩み寄ると、その細肩を胸の中に抱き寄せた。

「このままずっとここにいればいい。」
「優しいのね、鳳珠。」
「お前が・・・お前さえよければ、私は」

甘い逃げ道を用意してくれる鳳珠の唇に、はそっと指を寄せた。
それ以上言わないで、と潤んだ紫暗の瞳で告げると、鳳珠は短く息を吐き出した。

「ありがとう。」

の秘密を知って、それでも普通に接してくれる数少ない友人。
年こそ離れているが、かけがえのない友なのだ。
眠れないなら、と侍女に黄州産の地酒を用意させ、晩酌に付き合ってくれる。
そんな鳳珠の優しさに、ついつい甘えてしまいたくなる。
昔から変わらない。
どれくらい無言で盃を傾けただろう。
はようやく口を開いた。

「鳳珠は・・・知っていたの?」

酒のせいで虚ろな紫が、それでも真っ直ぐに鳳珠を見つめる。
誤魔化す事もせず、鳳珠は一つ頷いた。

「そう。」

小さく呟いて、またお酒に口をつける。
再び訪れる沈黙。
だが、鳳珠はそれを無理に破ろうとはしなかった。
話したい時、自身が沈黙を破ると知っているからだろう。
ただ無言で盃を傾けた。
そして酒瓶が重さをなくなした頃、が再び口を開いた。
鳳珠に言うでもなく、最初は独り言に近かったが。

「・・・別に怒ってるわけじゃないの。・・・・・・嬉しかったのよ。」
「ああ。」
「でも・・・私は・・・昔の私じゃない・・・から、だから・・・。」
「お前はお前だ。だろうが、だろうが、お前自身に代わりはない。」
「・・・それは今だからよ。・・・昔は・・・」

過去を思い出したは、震える肩を両手でぎゅっと抱き締めた。

「同じだ。」

短く告げられた言葉に、がピクリと反応する。
過去から必死に逃れようとするかのように俯き、漆黒の髪で存在を隠していた瞳が姿を現した。
透明な雫が目尻に溜まっているのを鳳珠がそっと指で拭ってやる。
鳳珠自身、の過去を詳しく知っているわけではない。
が、ある程度なら黎深から聞き及んでいる。
それでも、それ以上知りたいとは思わなかった。
何故なら、過去を知ったところで今何になる?
過去はあくまで過去でしかない。
今、ここにいる事の方が大切なのだ。
過去のがどうだったか、それは今に繋がる道の一つである。
だから同じだと思っている。

「過去は過去でしかない。それを変える事は出来ない。」
「・・・。」
「だが、お前は過去の傷を引き摺りながらも前へ進んでいる。違うか?」
「ええ。」
「なら、それでいい。」

それでいい。
だからこそ、傍に置いているのだ。
鳳珠も黎深も。
貸せるものならなんだって手を差し伸べてやる。
潰れてしまわないように、壊れてしまわないように、だから黎深は秘密にしていたのだろう。
確かに、以前のなら壊れていたかもしれない。
今でよかった。
今のなら乗り越えられる。
いつの間にか卓子に突っ伏して、寝てしまっているの長い髪を梳いた。


いつまでも真っ直ぐに。
いつまでも純粋に。
いつまでも高貴に咲き誇ってほしいと願いながら。


髪を梳いていた手を止めて、鳳珠は盛大に溜息を吐き出した。
小さな音をたてて開いた扉から黎深が姿を現したからだ。

「また私の家人を言いくるめて入ってきたな。不法侵入で訴えるぞ。」
「無粋だな。私はが君の手に落ちないかと心配でね。まったく、こんなに無防備に。」

愛しそうに顔を歪めながら、お酒のせいで頬を染めて眠るに手を伸ばした。
一日触れないだけでも不安になる。
この高貴で、それでも弱さの残る可憐な花が手折れてしまわないように。
どれだけ注意を払っていたか。
黎深は起こさないようにそっとを抱き上げた。

「知らんぞ。」

呆れたように言う鳳珠に一瞥をくれ、黎深はそのまま黄邸を辞した。




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