私は誰だろう
私は何だろう
私は必要か
私は―――
生まれてきてよかったのだろうか
「・・・ではないか。はぁ。」
劉輝は小さな溜息を吐き、ぺたんと机案に頬をつけた。
さらりと色素の薄い髪が頬を滑っていく。
今、劉輝の頭を占めているのは、つい先程絳攸を送り届けてくれた玲吏部尚書代理の事。
挨拶すらせずに、絳攸を執務室の中へ通してから扉を閉めて居なくなった。
そんな一瞬の中で、劉輝は見てしまったのだ。
彼の漆黒の髪と、揺らぐ事ない強固な意志を秘めた紫暗の瞳を。
それは遠い過去に傍にいたかけがえのない人に似ていた。
清苑公子と一緒で、義兄公子達に虐められていた自分を助けてくれた。
でも彼の人はもういない。
もうこの世にいない。
「休むな!」
遠ざかっていた意識を現実に戻したのは、他ならない絳攸だった。
こんななら、もう少し迷っていてもよかったのに。
何故か片付けても片付けても減らない書翰や書類の山。
どうすればこんなに回ってくるのか、頭を抱えたくなるのはこっちだ。
はぁ。
「溜息吐く暇があるなら、さっさと仕事にかかれ!」
「まあまあ、絳攸。落ち着いて。」
「貴様の頭はまだ春のままか!この山が見えないのか?連日の猛暑で人手不足なのに、ここで止めてどうする!」
劉輝の思いなど知った事ではないと、宥めに入った楸瑛に絳攸の激が飛ぶ。
やれやれ、と肩を竦める楸瑛となんと対称的か。
「それにしても、あの噂は本当だったのだな。」
「ああ。黎深様が溜め込んで連日徹夜になった後よりひどい様だったからな。」
「そんなに扱い難いのかい?それとも、あの紅尚書の弱みか何かを握っているのかい?」
楸瑛の言葉に、先程の玲吏部尚書代理の人柄を思い出す。
短い時間だったが、そんなに扱い難いとは思わなかった。
それに、黎深様の弱みなんて・・・邵可様や秀麗の事以外思いつかない。
が、はたしてそれが弱みになるかと聞かれたら、否である。
怜悧冷徹冷酷無比の氷の長官の異名を持つのにはそれなりの理由がある。
弱みを握ったとしても、次の日にはこの彩雲国のどこにも存在していないだろう。
黒い笑みを浮かべながら、平気で引導を渡す方だから。
「さあな。俺達の知らない何かがあるかもしれんな。年も俺の一つ上だし、後見人は霄太師だからな。」
「なんと言った?あの噂も本当なのか。」
「ああ、本人が言っていたからな。間違いはないだろう。」
「あの腹黒じじい、今度は何を考えているんだ。」
心底嫌そうに顔を歪めながら、劉輝は机案の上の書翰の隙間に額を付けた。
あのタヌキが絡んでくるとろくな事がないのは、前回の秀麗後宮入りの件で実証済みである。
吏部尚書がきちんと仕事をしてくれたおかげで出来上がった書翰の山は、本来ならば有難いが今の状況下では嫌がらせとしか思えない。
それにきっちり絡んでいるのは朝廷三師の古狸。
「・・・余は、逃げてもいいだろうか。」
「バカな事言っている暇があるなら、さっさと仕事をしろ!」
「そんなに怒っていると君まで倒れてしまうよ。」
「うるさい!貴様も見てないで手伝え!!」
「悪いけど、私はこれから左羽林軍に行かないといけないのでね。じゃあ、失礼するよ。」
真っ先に逃亡していく楸瑛に非難の視線を送りつつ、劉輝は再度溜息を溢していた。
どうやら、この状況から逃れられるのはまだまだ先の話しみたいだ。
一体何年ぶりにその姿を見ただろうか。
あの小さくて震えていた肩は見る影もなく、立派になっていた。
脅えた瞳は光を宿し、真っ直ぐに前を向いている。
何も出来ずに守られていた子は、今しっかりと地に足をつけていた。
「・・・時間が過ぎるのは早いな。」
時間がどれ程進んでも、劉輝は忘れていなかった。
遠くてはっきりとは聞き取れなかったが、確かにその口は『』と昔の自分の名を紡いでいた。
おそらく確信はなく疑問系だろうが。
表向き、は死んだ事になっている。
事情を知っているのは、悪夢の国試組の鳳珠、悠舜、そして紅家と朝廷三師。
前王も知っていたが、今はもう故人である。
『』は前王の子供だった。
劉輝とは異母兄にあたる。
そして今から十五年前に流罪となったが、紫州を出てから刺客を放たれた。
それはの異母兄達の差し金によるものだった。
幼いなりに武術にも長けていたは、襲ってきた刺客を返り討ちにした。
それでも子供の体力と大人の体力は根本的に違う。
最後にはかなりの深手を負わされ、川に沈んだ。
だからこそ誰もが生きているとは思わなかった。
生死を彷徨いながら流されていくを助けてくれたのは一人の男だった。
薄れゆく意識の中で、漆黒の装束だけがはっきりと脳裏に焼き付いていた。
それが紅家の影だと知ったのは、全身の傷が癒えてからだった。
そんな事をぼんやりと考えながら歩いていると、いつの間にか戸部についていた。
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